辺りは真っ暗。しかし鏡のように光を映し込む水面と、水面から立ち昇る湯気、延々と降り続く雪が宿の窓から溢れる明かりを受け止め、闇をやわらかく照らしている。水面に反射した光が目に飛び込み、思わずルカは視線を背けた。

 白い湯気が外気にさらわれ、流れてゆく。その霞の向こう、その黒とも白とも区別がつかない闇の雪原の世界はまるで、永遠に続く静けさ・・・・冷たい孤独の世界だった。ずっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。孤独の中へと。
 しかし、その風景の手前の闇を掻き消す白い湯気を立ち上らせている泉、その中では楽しそうに会話をしている賑やかな人々の姿があった。そして自分の肩の下くらいまでにある熱めの湯が、冷たい孤独とは全く無縁な温かさがあり、遠く離れかける心を孤独の幻想から現実に引き戻すよう役割を担った。
 目の前では湯治客たちが、何か熱い話題で盛り上がっている。その輪の中にルカは入らず、湯につかりながら、雪や目の前の人々を眺めていた。他人と風呂に入るのも、実は初めてである。
 湯の色は無色透明だが、泉の底は岩肌の色と夜の闇により黒く暗い。水面にはランプの灯りと自分の顔が映りこんでいた。
 混浴の決まりとして貸し出された白い湯着を腰に巻いているが、あまり着心地はよくない。お風呂に服を纏って入るというのは、なかなか不思議な気分である。しかしそんな温泉の中でも膝を抱えている自分は、入浴の仕方を間違えているだろうか。
 ぼーっと目の前の会話風景を眺めていると、目の前に突然、真っ黒なものについた黄色の目と口が飛び出してきた。

 

 「わっ!?・・・・」

 「温泉というのも面白くないな。このような体のせいで、入っている感覚もありゃしない。」

 

 あまりに突然に目の前に現れたので、驚いて背中を岩の角にぶつけたが、痛みを無言で耐えた。
 湯の中でもルカの影が存在していれば、この魔王は現れることが出来るのだ。最初は影が湯の中にあるから溺れてしまうのではないかと思ったが、彼は物体を透けて通ることができるように、湯の存在も影響しないようである。そのため今までも何度か、入浴中に彼が現れたことがあった。そのときはとても邪魔だったが。

 

 「どうだ子分、温泉というものは?余にはよくわからん。気持ちよいのか?」

 「ま、まあ・・・・どちらかというと。野外で入るっていうのはなんだか新鮮なんだけど・・・・」

 

 普通のお風呂と比べれば、なんだか肌がスベスベするしお湯の感触も異なるように感じる。この感触が気持ちよいというのかはよくわからないが、なんというか・・・・普通のお湯の中よりも居心地がよいように感じる。ずっと入っていたくなるような、普通の湯とは違う、やわらかいトロトロとした感覚。無色透明で見た目では普通のお湯と変わらないのに、なんだか不思議だ。
 ルカは湯の底に手をつけて、膝を曲げたまま背後の岩に寄りかかった。

 

 「この湯の中には普通の湯よりも色々な成分が入ってるみたいでな。それで神経痛や筋肉痛、冷え性に疲労・・・・といろいろなものに対して癒し効果があるらしいぜよ。」

 

 眼鏡をかけた湯治客が、ルカとスタンに温泉について説明してみせた。しかし、スタンは信じていないようである。

 

 「ふん、こんな湯にそんな効果があるとは思えんな。うさんくさい。ただ体が温まって血の巡りがよくなっただけではないのか?」

 「う・・・・温泉をナめたらいかんぜよ。肌がスベスベになっただろ?肌の美しさを保つ効果もあるんだぜよ。」

 「へー、すごいじゃない!それは入りがいがあるわね。」

 

 声がした方を見ると、ロザリーが湯着を身に纏い外に出てきた。いつも着ている鎧はもちろん着ていないが、白い湯着はまるで装飾が無くなった白い羽織のようだ。「うー、さむい」と言いながら、泉の傍まで裸足で歩いてきた。
 女の人の入浴姿は初めてでルカは少しドキドキした。しかし、思っていたよりも色気は・・・・無い。
 その上、入浴のときまでピンクの日傘を差してくるとは。こんなシュールな光景も・・・・見たことが無い。

 

 「ホレ、見ろ子分。残念なことにタレ尻は見えんが、体つきは思ったとおり女らしくないな。大根のような腕と足だ。」

 「あーら。何か言った、スタン?温泉を楽しめないからふて腐れてるのかしら?」

 「温泉でのんびりくつろぐ魔王ほど、おかしなものも無いわ。・・・・いや、目の前の日傘を差しながら夜の温泉に入る女勇者の方がずっとおかしいかな?ククク!」

 「う・・・・。あんたのせいでしょ、これは・・・・」

 

 ロザリーは片手でピンクの傘を差しながら、もう片手で器用に掛け湯を浴び、そしてそそくさと湯につかった。そして傘が邪魔にならないよう、隅の方へと移動する。
 湯治客たちが不思議そうにそちらを見ている。

 

 「おいおい、ねえちゃん・・・・屋内だけじゃなく湯にまで傘を持ってこなくてもいいんじゃないんかい?」

 「降っている雪がそんなに嫌なのか?」

 「・・・・・・・・・・・・。何も言わず何も見ていないフリをしてください。お願い。」

 

 ロザリーは目を逸らしつつ、真顔で言った。湯治客たちもそれ以上は問うことはしなかった。ルカの横では、スタンが笑いをこらえている。ロザリーの傘を持つ手がぷるぷると震えたのを、ルカは見た。温泉だからとはいえ、入浴中にまで傘を持ってこないといけないのはさすがに大変そうである。
 男だけだった温泉の中に女性が一人混じったことで、ようやく面子も少し華やかになったように感じる。そして賑やかになった。
 しかしロザリーと一緒に入りに来ると思っていたマルレインがいないことに気づき、ルカは首を傾げる。

 

 「王女様は・・・・?」

 「もう少ししたら入るって言ってたわ。今は人が多すぎるから入りたくないって。やっぱり王女だから、お風呂は広いほうが良いのかしらね。それともやっぱり、女の子だからかな?」

 

 湯につかりながら、ロザリーはクスクスと笑った。そう言う彼女は、もう混浴には抵抗が無くなってしまったのだろうか。
 ちなみにルカ自身は、未だに混浴に慣れていない。いや、誰かと一緒に入ること自体に慣れていなかった。やっぱり少し恥ずかしい。
 ルカとは違ってすっかり慣れている様子の湯治客のほうは、まったりくつろぎのポーズで湯に浸っていた。湯につかりながら日傘を差すロザリーを、じろじろと見ながら。

 

 「うーん、最初見たときは変人っていう印象があったけどな。よく見りゃーやっぱりべっぴんさんだな、あんた。こんなねえちゃんと一緒に入れるのも運がいいねえ、ほんと。」

 「・・・・嬉しいけどね。最初の一言が余計よ。」

 

 ピンクの日傘の下の、黄と金と闇を混ぜたような色の髪が、諦め切った表情の目の片方を隠した。
 確かに彼女は、勇者らしい整った顔立ちだろう。他の村人たちも褒めるのもわかる。それに普段の華麗なレイピア捌きを思い出すと、今まで出会った勇者の中では一番勇者らしいのかもしれない。
 しかし性格が結構庶民的で、魔王とケンカするわ妹のアニーとも仲が良いわで、どこかしらの点で典型的勇者像から彼女はズレている。また普通勇者というものは、自分の利益と掲げる正義のために、「勇者」らしいことのみを求めて社会に貢献するというイメージがある。それは別に悪いことでもないし、勇者という職業柄当たり前のようにも感じるが、そのため世の勇者たちが理想とする勇者像は、あまり庶民と接し合う印象がない。それにロザリーは、お笑い勇者として他の勇者たちから蔑まれている。確かにロザリーは、格好も性格もその不遇な生涯も、その認識に相応しいほどに笑えるものかもしれない。
 だからこそ、彼女は一番勇者らしいのに勇者のように見えないのかもしれない。おかげで、彼女が美人だという意識もあまり感じさせない。
 せっかく顔が綺麗なのに、もったいないなあ・・・・とルカは思う。
 しかしスタンは、ロザリーの外見に関してはさもどうでもよさそうだった。

 

 「顔だけが良くても、何の役にも立たん。大事なのは中身だ中身。中身が腐っておれば、勇者という名もただの肩書きに過ぎんわ。そんな顔だけ女勇者なぞ、余の敵ではないな。」

 「あんたねぇ・・・・あー、言っていることが良いことなのか悪いことなのか段々わからなくなってきたわ・・・・。でもね、あたしは顔だけじゃないわよ!中身も確かに勇者なんだから!・・・・大体、あんたの方が中身があるか怪しいわよ。そのペラペラな体のどこに中身があるのよ?魔王っていうのもただの肩書きだけじゃないの?または自称?」

 「な、な、なんだとぉぉっ!それは余の本当の姿を見てから言えっ!」

 

 しかし、スタンの魔王らしくなさは誰もが認める事実である。今のところ、本当に彼を魔王だと本気で認めているのはジェームスとロザリーくらいしかいないのではないか。ルカも正直、未だに半信半疑だった。しかしながら彼が自分の影を支配していてしかも自分が子分にされている以上、彼を魔王だと信じなければこんな旅なんてできないが。
 怒って暴れまわるスタンを横目にため息をつきながら、ロザリーは首まで温泉につかった。冷えていた体がぽかぽかと温まったのか、先ほどまで呆れていた彼女の顔が、少し幸せそうに緩んだ。

 

 「まあまあ、勇者とか魔王とかはとりあえず置いておいてさ。せっかくみんなで温泉につかっているんだから、ちょっと面白い話でもしないか?」

 

 スタンを宥めるように、一緒に湯につかっている気さくな若い男が話題を振った。

 

 「ふむふむ、面白い話・・・・とは?スタン君の体の中身よりも面白い話かい?」

 

 しかし、ロザリーたちではなく予期せぬ方向から返事が返ってきた。キスリングが湯着を纏って入ってきたようである。いつの間に、とルカは目を見張った。
 そんなルカは気にすることなく、ざぶん、という音を立ててキスリングが温泉の会話の輪に加わる。今までの話は聞こえていたようで、にやにやと笑いながら。一歩話を間違えていたら、もしかしたらスタンはキスリングに体を解剖されていたかもしれない。ルカは目の前のその男に、言いようのない不気味さと恐怖感を感じた。魔王を解剖しようなんて、王女の解剖と同じくらい今までにない新発想である。
 しかしながら幸運なことに、キスリングは若い男の話に興味を持っているようだ。

 

 「ああ、そんな気持ち悪いことよりももっともっと面白い話さ。町で聞いた話なんだけどよ、これがとんでもない笑い話なんだよ。ほんと最高だね、こんな話を考えついた人は!こんな話、滅多にあるもんじゃないぜ。」

 「ほほう、それは興味深いね。この世界において笑い話など星と同じ数だけあるものだが、そんな中でも最も高い面白さを秘めた話を知っているというのかい?ふふふ、それはぜひ聞いてみたいねえ。どんな話なのかな?」

 「結構知られているネタさ。岩ガメと石コロの話。知ってるか?」

 「・・・・『岩ガメと石コロ』?」

 

 なんだかどこかで聞いたタイトルだった。ルカは眉をひそめ、今までの記憶の中を探る。
 向かい側で眼鏡の湯治客が、ため息をつきながら苦笑していた。

 

 「まーたその話か?全く、飽きないねえあんたは。確かにその話は面白いがな、わしはもう聞き飽きたぜよ。」

 「だってこんな笑える話、他に無いだろ?聞いておいて損はねえって!本当に面白いからよ。」

 「ふーん、そうなの・・・・どんな話かしら、一回聞いてみたいわね。」

 

 ロザリーが興味津々だというように、若い男を見た。キスリングも顎に手を当てて、瞳の中に輝く好奇心の光が輝きを増している。
 どうやら2人とも知らないらしい。・・・・しかし、ルカは聞いたことがあった。そしてスタンも。
 リシェロかテネルの村人か、どちらだったか忘れてしまったが目の前の男と同じように話を聞かせてきたのだ。
 そのことを、スタンが4人の会話に割り込んで言った。

 

 「その話、余は聞いたことがあるぞ。あるノロマな岩ガメがマヌケなことに子供を見失って代わりに石コロを子供とするというなんともバカげた話だろう?クックック、あんなくだらん話は思い出すだけでも笑えてくるな。」

 「へーえ。スタンはもう知ってたの?頭の中身が無いあんたが、わざわざ記憶しているくらいに面白い話なのかしら。・・・・にしてはずいぶんな言い草だけど。」

 

 ロザリーがさり気なく嫌みを含めながら驚いた様子を見せる。
 頭の上に畳んだ手拭いを乗せたキスリングも、興味深そうにルカとスタンを見て口を開いた。

 

 「おや、スタン君が知っている・・・・ということはつまり、ルカ君も知っているのかな。私はオバケのことについては未知の世界以外は全て知り尽くしているつもりだが、流行という常に流れてゆく人間関係の中に存在する会話の世界には中々ついていけず情報にも疎くてね。まさかその話題を知る人間が私の周りでは、ルカ君、スタン君、ルカ君とスタン君にその話を教えた人物、あと目の前にいる気さくな君、そしてそっちのアナタを含めて合計5人もいるとは。そして今、私とロザリー君もその話を聞くとして人数に含めると、7人もいるということになるなあ。おや、宿のオーナーも入れると8人かな?とにもかくにも、憶万という実にたくさんの話題が世界を駆け巡る中、その岩ガメ君の笑い話を知っている者がこの時点で既に8人も集結しているということは、それ程にその話は知られているというわけだね?さて、今・・・・私とロザリー君を、岩ガメ君の話を知る者の中にカウントしてしまった時点で、その話を聞くのが決まってしまったわけなのだが・・・・」

 「・・・・この話をすごく聞きたいんだっていうことはよくわかったからさ。とりあえず落ち着いてくれないか?」

 

 止めないと延々と続きそうなキスリングの独り言を、若い男がうんざりとした様子で止める。
 ここに岩ガメと石コロの話を知る人間が何人いるかなんてどうでもいい話であるのだが、ひっくるめて彼が言いたいのは、「自分もその話を聞きたい」ということらしい。彼は説明が余計だった。理論的に考え言葉にしたくなるのは学者らしいことだと思うが、それらの言葉を真面目に聞く人間はほとんどいないということを彼は知らない。学者なのに、やはり彼もどこか抜けているところがある。変人だ。そして言うことも変だ。
 しかしそのよく回る舌と他人とは違う独自の考え方は、普通の人よりも頭の回転が良いということを示している。その辺では、彼もやはり優れた学者なのかもしれない。その頭脳の使いどころを間違えている気がするのはさておいて。

 

 「しかしだな。わざわざ時間を割いて話を聞いてやったというのに、聞かせたヤツは途中まで話して笑い転げてしまったのだ。全く、無礼者で話にならん。物語というものは、最後まで話さねば意味がないというに・・・・」

 「そりゃーあんな話、最後まで話したら腹筋が崩壊しかねないからなぁ・・・はは。仕方ないって、そう怒るなよ。代わりにオレが話してやるからさ。つっても、オレも最後まで話せる自信ねぇけどよ。」

 「いや、だから最後まで話さねば意味がないっつの。」

 

 若い男の言葉に、スタンが冷静につっこんだ。
 しかし、話せるならば続きは聞きたい。ルカも気になっているのだ。
 それはロザリーとキスリングも同じらしい。

 

 「別にいいじゃない、最後にこだわらなくても。話せるところまで話してくれない?あたしも気になるし。」

 「よーしよし、そうこなくちゃな。じゃ、続きから話してやるか!岩ガメが石コロを子ガメだと思い込んだところからな。で・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 ―――話の内容はこうだ。
 岩ガメは石コロを子ガメだと思い込み、自分のナワバリの目立つ場所に置いて、今までと同じように暮らしたらしい。
 石コロは石コロだから何も言えず、ただその様子を傍観していた。岩ガメの思い込みはかなり激しく、実はナワバリのギリギリの場所で眠っていた本物の子ガメにも、気づかなかった。
 それほどに岩ガメは子ガメを愛していたということになるが、そのせいで本物の子ガメは親の岩ガメのところに帰れなくなる。岩ガメの石コロを我が子と呼び暮らすさまを、子ガメはナワバリのはじっこから眺めていたのだそうだ。ナワバリの中だが、誰にも見えない、親にも気づかれない場所で―――。

 それからまたしばらくして何かが起こったそうだが、それを話そうとしたところで彼は笑い出してしまった。
 周囲で聞いているロザリーたちも途中で笑い出していたから、彼も笑いを堪えながら話すのはしんどかったのだろう。それが限界だったようで、前に聞いたときと同じように彼は笑い転げてしまい、話は中断してしまった。

 

 「イヤ、マジで、うわっはっはっはっは!やや、やっぱりダメだ・・・・笑っちゃって。ぎゃははははは!ダメだよな、笑っちゃってちゃ。や、やっぱこれ以上・・・・ぐははははは!話せそうに・・・・ぶっ!うっひゃっひゃっひゃっひゃ!」

 「ぶふっ、だ、ダメだわあたしも。そ、それ以上話されたらほんとに腹筋が壊れるわ・・・・あっはははははは!あー無理無理!一旦終わりにしましょ。あははははっ!」

 「ぶわはははは!ダメだ、その話は聞き飽きたがな・・・・ひゃははは!岩ガメのアホな様をつい想像しちまって笑っちまう。あーっはっはっはっは、だっから話して欲しくなかったがだって、あーもー。ひーははははは!」

 「いや・・・・私としては・・・・くくっ。君たちの笑いっぷりのほうも・・・・ぐふふふ、見ていて笑えるんだがね・・・・うっぷぷぷ。」

 

 温泉内が、大爆笑の渦に包まれる。さびしげな雪の夜だというのに、ここはなんと明るい雰囲気に変わってしまったことか。一気に活気付いてしまったようだった。
 話し手の男もロザリーも腹を抱えて笑い、せめて耐えようとするがすぐに吹き出す。話を聞くのを渋っていた湯治客も水面をバンバンと殴るようにして笑い、キスリングも俯き加減で笑いを耐えていた。そのせいで笑い方が一番怪しい。
 笑い声と水しぶきの音が、闇色の雪原に響いて吸い込まれてゆく。
 スタンも例外ではなく。

 

 「フハハハハハ!確かにこれはバカでアホでノロマでマヌケで、本当に聞くに耐えん話だな。石コロが石コロだと気付かんとは・・・・これほどにおかしな話も無いわ。クククク、ウクククク。ダーッハッハッハッハ!くそ、キサマ、よいところでまた中断しおって・・・・」

 

 黒い影が仰け反って、大声で笑う。
 ルカは皆が笑い転げるその様子を、黙って眺めていた。

 

 

 

 「ひひひ、ふへへへ・・・・ダメだ、笑っちまう。ごめん、もうあがるな。ちょっと雪で頭を冷やしてくるわ。はっははは、じゃ、途中だけどごめんよ。ぶぶぶ、続きはまた今度な。ぎゃはははは!」

 

 若い男は未だに笑いながら、湯から上がって皆に手を振る。そして足を冷たそうにしながら雪の上を足早に歩いていき、更衣室へと向かっていった。
 彼がいなくなったことで、温泉の中の笑いの波も段々と引いていく。

 

 「ひー、ひー・・・・あはは、お腹、痛いわ・・・・。うー、明日、筋肉痛になるかも・・・・はは。」

 

 やっと落ち着いてきたロザリーが、まだ思い出し笑いをしながら腹を押さえていた。
 その様子を見たスタンが、横で得意気に笑う。

 

 「クックック、いい気味だ。余はどんなに笑っても、腹を痛めることなどせんからな。あのような話をされたせいで、明日の戦いに影響が出てしまうとは、それもまた笑える話だな。フハハハハ!」

 「それはあんたの旅路にも影響が出ることを意味してるんだけど・・・・もういいわ。はー・・・・はは・・・・」

 

 ロザリーが呆れたような視線で彼を見て、再び思い出したように笑った。
 皆、すっかり笑いのツボにはまったようである。
 キスリングはすっかり落ち着いたようで、今度は岩ガメと石コロの話について話し出した。

 

 「うーん、確かにすごく面白い話だったね。こんな笑い話は全く、聞いたことがないよ!岩ガメの『岩』と『石』コロをうまく合わせているのがまた面白い。岩ガメ、というのはただのカメではなく、岩のように頑固、という意味もあるのかもしれないなぁ。そして主人公がカメなのは、やっぱりカメのように鈍感、という意味なのかな。いやあ、実に興味深いね!一体何を元にして作られたのだろうね。作った人もどんな人なのか知りたいなあ・・・・この話に、一体どういう意味を込めているのかな?」

 「待てエセ学者。大体まだ、続きの内容がわからんではないか。そういう考察は、あの話の先を聞いてからにしろ。」

 

 再び彼の長い考察が始まるのを予想したスタンが、もっともな意見で彼を制した。
 そして彼の思惑通り、彼の言葉にキスリングは気が変わったようである。

 

 「ああ、確かにそうだね。早く聞いてみたいよ、あの先・・・・うーん、気になる・・・・。他に続きを知っている人、誰かいないかなあ・・・・」

 「わしは知っとるけどな。・・・・もー笑い疲れたし、話す気はないからな。聞くなら他のヤツにしてくれよ?」

 

 疲れたように笑った眼鏡の湯治客は、キスリングに喋らされる前に念を押して言った。
 非常に残念そうな表情をするキスリング。そんな彼に対し、「自分ももう聞く気は無い」という視線を送るロザリーとスタン。正直みんな、笑い疲れてしまっている。

 しかし、そんな中でルカは、ひたすら黙って話を聞いていた。
 いや、聞いてはいない。頭の中で、ずっと考えていた。
 ルカが考えているのは愚かな岩ガメのことではなく、はじき出された子ガメのことだ。


 ―――何故。
 何故、みんなはあんなに笑えるのだろう?

 自分の存在に気付かれず、そのせいではじっこからニセモノの自分と親の暮らしを見ている子ガメ。
 親に自分が自分だとわかってもらえず、自分じゃない石コロを自分とされてしまう子ガメ。
 今まで暮らしていたナワバリの中に居場所が消え、だからといってナワバリの外にも居場所が無い子ガメ。
 誰にも自分が「自分」であることを認められず、認識の外へとはじき出された、一人ぼっちの子供。
 こんなに悲しくて、切ないのに・・・・笑えるはずが無い。
 自分が「自分」ではなくなってしまった。しかし、だからといってニセモノは本物の「自分」ではない。
 ならば「自分」はどこにいってしまったのだろう?
 「自分」の居場所が消えてしまったならば、「自分」はどこへ行くのだろう?
 子ガメはショックだったのではないだろうか。自分じゃないどこかの誰かが、親から我が子として扱われている様を見て。
 自分は、我が子はすぐ傍にいるのに、気付かれないもどかしさ。きっととても寂しいに違いない。
 子ガメの居場所は、雪が融けてゆくのと同じように消えていく。
 雪が融けてしまえば、その場所には何も無い。子ガメはいなかったことになる。

 ―――どこかに帰ることも戻ることもできない子ガメを、誰にも気付かれずに消えゆく子ガメを、誰が救ってあげられるんだ?

 

 

 「・・・・あ。」

 「ん?どうした、子分。」

 

 ふと俯いていた顔を上げ、横を向いたとき。温泉の湯を囲んだ岩の向こう・・・・温泉の傍の白い雪の中に何か、光を反射するものが埋まっているのが見えた。
 雪でほとんど隠れてしまっているが、わずかに鈍色が雪の上に見えていて、それがきらりと輝いている。
 湯の中から手を伸ばし、指で冷たい雪をはらう。そしてその物体を、雪の中から拾い上げてみた。そして手のひらに乗せて見る。
 それは、今までもあちこちに落ちていた、小さな歯車だった。

 

 「歯車・・・・」

 「なんだ、またそれか。子分はそういう無意味なものをよく拾うな。しかし、何故こんなところに落ちておるのだ?」

 

 何故こんなところに・・・・と言われても、ルカにはわからない。今まで落ちていた歯車だって、その疑問が通用するものばかりだったと思う。こんなに小さい歯車は誰も気付かないのに、何故かルカはよく見つけてしまうのだ。もしかしたら自分には、物拾いの特性でもあるのだろうか。
 歯車の方だってキラリと光って、拾ってくれと言わんばかりの様子で落ちているのである。それを見つけたら何故かルカは、拾わずにいられなくなるのだ。歯車が特別大好きというわけでもないし、歯車マニアというわけでもないのだが・・・・。
 ―――そのとき、頭の中でふと何かが浮かび上がる。

 ルカが拾った歯車を見て、意外にも向かい側の湯治客が驚いたような表情を見せた。

 

 「あや?その歯車って・・・・もしかして、あの変なオッサンが探していたものではないんかい?」

 「ほう、誰のことかね?あの変なオッサン、というのは・・・・」

 

 キスリングが手を広げて訊ねた。
 湯治客は温泉の目の前に広がる、その闇に霞んで見えない雪原の彼方を指差す。

 

 「この雪原のずっと向こうにな、人の名前を誰だと決めずに・・・・というかひとつの名前で呼ばずに好き勝手に呼ぶオッサンが住んでるんだぜよ。もう言うことも全然意味わからん変な男なんだが、確かちっちゃな歯車をたくさん欲しがっていてなあ。もしかしたらそいつが言っていた物かなーって思ってな。」

 「へぇ・・・・変わった人もいるもんねー。まあ、あたしの周りにいる人なんて変人ばかりだから、今さら驚かないけど。」

 「おい、それは余も含めて言っておるのか?そう言うお前だって充分変人なのだからな、覚えておけよ。」

 「うっさいわね、トイレットペーパー魔王。」

 

 ロザリーは紙のような体の魔王をからかって言った。
 しかし、スタンの言うこともあながち間違ってはいないのであるが。

 それはともかく、まさかこの小さな歯車を探している人間がいるとは・・・・と、ルカは驚いた。しかも、こんな雪原に住んでいる人間が他にもいたなんて。
 明日、会いにいってみようと心に決めた。かなりの変人という話だから、常人に理解できるようなまともな会話ができるかどうかもも怪しいけど。しかしこちらには同じくらい変な学者もいるから、もしかしたら言葉が通じるかもしれない。それに、この小さな歯車の使い道も知りたいのだ。訪問して損は無いはずである。
 このちっちゃな歯車を見つけたおかげで、良い情報が手に入った・・・・ルカは心の中で、この歯車に感謝した。

 

 そしてルカは、もうひとつ、歯車を見つけたおかげで分かったことがあった。
 子ガメを救う方法。
 どこからも居場所を失った子ガメを救うには、誰かが子ガメを探して見つけなければならない。そしてそのためには、子ガメも自分を主張しなければならない。
 さっき見つけた、白い雪に埋もれかけていても光ることで存在を主張した、小さな歯車のように。
 例え姿が小さくても、見つけてくれる人はいる。そして見つけてもらうためには、自分も目立つように輝かなければならない。子ガメは隠れている場所から、飛び出さなければならないのだ。
 誰かが見つけてあげないと、子ガメは見つからない。しかし、子ガメ自身が目立っていないと、子ガメは見つけられない。自分と相手。見つけるために見つけられるために、お互いが努力しなければならない。
 ・・・・・・・・しかし。そのことが分かったところで、所詮「子ガメ」は物語の中の登場人物である。この事実を話の中の子ガメに伝えるわけにもいかないので、分かったとしても結局は全く無意味なことなのだ・・・・。

 みんなが『岩ガメと石コロの話』を笑う。それは、彼らが薄情者だというわけではない。スタンもロザリーもキスリングも、この話が悲しい話だと気付いていないだけなのだ。きっと話し方のユニークさと岩ガメのマヌケさに気を取られ、その中に染み込んでいる暗い部分には、気付いていないのだと思う。そして自分がこの話を笑えないのはきっと、自分の性格が根暗なせいで、話の暗い部分にしか目が向いていないからに違いない。
 きっと、そうなのだ―――そう考えなければ、他人と自分の違いすぎる感受性に、不安になりそうだった。
 何故、みんなはあんなに笑えるのだろう?本当に、腹を抱えて笑えるほどに面白いのか?
 皆が大爆笑していた中で、ただ一人、ルカだけは理解ができなかった。

 

 

 

 

 

 

 「さーてと、いつもよりもちょっと早いが、そろそろわしもあがるかね。あんまりつかってたら、湯あたりして湯上りのビールどころじゃなくなっちまうしな。んじゃ、せっかくの温泉なんだ、おまんらも好きなだけくつろいでいけよ。」

 

 眼鏡の湯治客も温泉からあがり、体中から白い湯気を立たせながら、更衣室へと歩み去っていった。
 温泉内にはルカの旅のメンバー3人(+α)のみになり、先ほどまでと比べれば随分と静かになったように感じる。
 温泉に入ってから30分くらい経つだろうか。雪は未だにしんしんと降り続き、ロザリーの日傘の上に薄く積もり始めている。普通これくらい長く入っているとのぼせてしまうだろうが、露天風呂であるおかげと外の空気がかなり冷えているせいで、血が頭に上ることはまだ無かった。
 しかし自分は長湯をするタイプではなく、もうそろそろ温泉から上がろうかと思っていたのだが。

 

 「なんじゃ、浮かない顔をして。温泉は気に入らなかったのか?」

 「いや、そういうわけじゃ・・・・・・・・・・・・あ、マルレイン?・・・・!」

 

 少女の言葉に顔を上げると、思わずルカは息を呑んだ。
 入浴者が少なくなってきたのを見計らって、外に出てきたのだろう。ルカと同じ年頃の王女が、そこに立っていた。
 しかしマルレインは他の者と同じように白い湯着を身に纏っているが、ロザリーとは全く違う・・・・さすが王女と言うべきか、まだ少女ではあるがどこか艶やかな華があった。いつもよりも露出されている肌は雪のように白く、体から伸びている手足は細くて折れてしまいそうだ。その姿には色気があるというわけではなく、どちらかと言えば芸術のような自然な美しさがある。いつもの王女のドレスを脱いだだけで、こんなにも変わるものなのか。
 普段とはまた違う不思議な雰囲気を持って現れた彼女を見て、キスリングも感嘆の声を上げた。上から下へ、下から上へと隅々まで見ながら。そんなキスリングを、ロザリーが変態を見るような目で見ている。彼が変態なのは既に周知の事実であるが。

 

 「うーん、白い湯着に白い肌にバックに舞い散る白い雪・・・・闇夜に湯気と共に白く浮かぶようで、いい味が出ているじゃないか!そして美しく長い髪と整った顔。深遠だが無垢な光を映し出す薔薇色の瞳・・・・。童話に出てくる雪の妖精を連想させるようなパーツが揃っていて、その部分も実に良いね。これで頭上にいつもの青銅色の王冠があれば、もっとそれらしく見えたかもしれないが・・・・ああ、手足が少し細すぎるような気もするけど。うふふふ、正にセクシーでキュートだね!」

 「あのねえ、あんた。確かに王女様に対する観察力や詩的な感性はすごいと思うけどね。とりあえず、その舐め回すような視線と頬を染めて言うのはやめてくれない?なんか危ない人みたいよ。」

 

 ロザリーが後ずさった。しかしキスリングの怪しく不気味な瞳の輝きは、強さを増すばかりだ。

 

 「うんうん、普通の女性はともかく、王国の王女の入浴に立ち会えるとはなんて幸運なんだろうなあ。王女の入浴シーンは普通の女性と比べ、一度に珍しいコンブが6匹出てくるくらいに珍しいかな。ああ、興味深いよ・・・・こんなに近くにあるのに届かない、王女の中身が・・・・スタン君の中身も見たいけどね・・・・やっぱり解剖するしかないかなあ・・・・」

 「待って待って待ちなさい!普通の女性ってもしかして、あたしのことを言ってたりする?まずね、女の子と一緒にお風呂に入れること自体が普通ありえないんだからね?温泉だからいいけど。いやその前に、中身って何よ中身って!?」

 「どうでもよいが、そんなにジロジロと見るでない・・・・無礼者が。だから他人と湯につかるのは嫌なのじゃ!わらわだって風呂に入るものだというのに、それのどこが珍しいのか、わらわにはわからぬ。お前がわらわを褒めるのは勝手じゃが・・・・きっとわらわが王女だから、変わっているように見えてしまうだけじゃろう。」

 

 つっこみが追いつかずに困り果てるロザリーだったが、マルレインが苛々とした様子で彼を止めた。しかし、そう言っている彼女は機嫌が悪くなったような口調だが、頬がほのかに紅く染まっている。少し照れているらしい。
 彼女は自身が王女だから見え方が他人と違うと言っているが、お世辞じゃなくても彼女は美しく可憐だとルカは思う。テネルに住んでいる幼馴染のジュリアにも劣らないくらいだ。
 ―――しかし、湯着を纏ったマルレインを前に、ルカは猛ダッシュで顔を背けて俯いた。見てはいけないものを見てしまった気がして、みるみるうちに顔全体が真っ赤になっていく。
 俯いている彼に、スタンが何気なく声をかけてきた。

 

 「どうしたのだ、子分。そんな熟したトマトのような顔をして俯いて。のぼせたのか?気分が悪いか?全く、温泉で体を壊してどうするというのだ・・・・。」

 「いいいいややや・・・・そ、そういうわけじゃないけど・・・・。ちょ、ちょっと、なんか自分って男湯とか行かずにここにいてホントにいいのかな、とかいろいろ・・・・。」

 「ここは温泉である上に混浴だから問題は全く無いぞ。・・・・なんだ子分、もしかしてあの王女を見て鼻血ブーでもしたか?ククク!」

 

 自分はそんなスケベな男になった覚えはないのだが・・・・。鼻血も出していないし。
 この魔王はそのにやにや笑いと小声で言ってくる余計な一言が、なんだか下世話なオヤジくさい。あるいは小学生か。ロザリーに老けているだのお子様だの好きに言われても仕方がないように感じる。
 二人がこっそり言いあっている間に、マルレインは身に掛け湯を浴びて、そろそろと温泉につかろうとした。しかし、ロザリーに呼び止められる。

 

 「あ、ちょっと待ってください。そのような長い髪では、湯に髪がつかってしまいますわ。何かで結ばれたほうがよろしいかと・・・・」

 「ふむ、そういえばそうじゃのう。ならば・・・・」

 

 マルレインは手前の縦ロールの髪に巻いてあるリボンの片方を解き、それを使って後ろの髪をポニーテールに結った。
 これで後ろの髪はギリギリ湯につからなくなったが・・・・流石にロールされている髪を後ろにまとめて結ぶわけにはいかず、仕方なくそのままにすることにした。
 しかし、リボンを解いてもその縦ロールが崩れてしまわないのはすごい。いつも固く巻いているせいで、既に癖になってしまったのだろうか。・・・・そういえば、いつもどのようにしてその髪を巻いているのだろう。彼女は王女様だし、あれでも年頃の女の子だから、毎朝念入りにヘアトリートメントをしているのかもしれない。だからいつも髪がつやつやしていて、痛みも無く綺麗なのだろう。
 ポニーテールに結った彼女は優雅に湯につかり、ルカの隣まで移動してきた。そしてようやく落ち着く。
 隣のルカは全く落ち着いていないが。

 

 「ああ、あたたかいのう。舞い散る雪を見て湯につかるのも、風情があって良いものじゃな。見ている風景は寒いのに、体と心は何やらほっこり温かい。なんと不思議な心地じゃろう・・・・」

 「・・・・は、はあ・・・・。」

 

 マルレインはゆったりくつろぎモードだが、ルカは赤面してカチコチに固まったままだった。二人の様子を例えるなら、まるで温泉卵とゆで卵である。異性を気にする年頃であるルカにとって、温泉であるとはいえ同じ年頃の女の子と入浴するのは、かなり緊張することなのだ。
 そんな様子のルカを見て、ロザリーはなんとなく彼の心情が理解できた。ルカはいつもやたらと影が薄いが、やはり普通の男の子なのだ。それが微笑ましくて、自然と口元が綻んだ。

 

 「ふふ、あの調子じゃ、王女様が隣で楽しんでおられるのもわかってなさそうよね。でもいいなー、男の子って。複雑な上に繊細だけど、純粋なんだもの。そう思わない?」

 「あ、私かい?えー、私が興味あるのはオバケちゃんと、世界でも有数とされる勇者と魔王と王女みたいな珍しいものだからなあ。男の子を解剖しようとは思わないかな、そういう趣味も無いしね。それに、すでに人間の肉体については医学書で解明されているからねぇ・・・・残念なことだが。しかしオバケちゃんは倒したら消えてしまうから、まだ研究が進んでいないんだよ。だからこそ興味深く、そして愛らしいのだがね。オバケちゃんのことを調べている者も、知りたいと思っている者も本当に少なくてね・・・・もったいないことだといつも思うんだが・・・・」

 「・・・・・・・・・・・・。そういう話をしているわけじゃないんだけど・・・・。」

 

 今のキスリングは生物解剖な気分らしい。男の子を解剖する趣味は無くても、オバケや他の人間を解剖する趣味はあるのだろうか。そして、少し話を振っただけで勝手に語り出してしまうのは、彼が学者だからなのだろうか。
 しかし、ロザリーの顰めた顔を見て、やっと彼女の言いたいことがわかったようである。やはりキスリングは、一番空気が読めなさそうで一番空気が読める男のようだ。たぶん。

 

 「ああ、目の前の二人のことかい?・・・・そうだね、うん。やっぱり青春って良いねぇ、なんだか娘を見ている心地になるよ。まあいないけどね。・・・・うーん、私にもあんな時期がいつの日かあったのだろうが、知らぬ間に過ぎてしまうものなんだね。と言っても、昔の私は今よりも輝いていなかったから、私としてはやっぱり昔よりも今のほうが楽しいが・・・・ロザリー君にも青春時代があっただろうに、悲しいことだなあ・・・・。」

 「・・・・何よそれ、どういう意味で言ってんの?あたしは老けている、という意味だったら怒るわよ?」

 「例えそういう意味が込められていなくとも、キサマは老けているがな。」

 

 影の体を伸ばしてロザリーたちの話を聞いていたスタンは、悪気のある表情もせずさらりと言ってのけた。スパーンと思い切り殴りたくなる衝動を、ロザリーは必死に抑える。殴ったところで彼には何も通用しないのだ。―――落ち着け、自分。
 そんなロザリーの言葉にキスリングはというと、「青春時代の儚さを感じただけだよ」と言い笑って彼女を宥めていた。しかし、あまりフォローにもなっていない。

 そんな彼らの会話がルカの耳に届いているはずもなく、彼は必死に隣のマルレインに視線を合わせないようにしている。そうしていたら、自然と雪原の景色に目が向いていた。
 雪は、音も無くしんしんと降り積もり、世界を永遠に続くような白い闇に染め上げていく。その情景は現実味がまるで無く、美しく幻想的のようで、全ての感情を忘れてしまうかのような虚無感さえもあった。降り続ける雪たちをひたすら見続けていると、同じ時間が何度も繰り返されているような錯覚に陥る。それは、優しくファンタジックな夢幻の世界へ入り込むようにも、冷たい孤独の中へと引き摺り込まれるようにも感じた。
 そうして雪景色を眺めていると、身を支配していた緊張もいつの間にか忘れられたように消えていく。ルカは結晶の舞いがまるで赤ん坊をあやすベッドメリーのように見えてきて、そして湯の温かさも手伝ってほんのり眠気を誘った。そのせいで、隣のマルレインが自分を睨みつけていることさえも気付かない。

 

 「・・・・ルカ。ずいぶんと不満そうじゃな?そんなにわらわと温泉につかるのがイヤなのか?」

 「い、いやいや違います。ちょっと、雪に見惚れてただけで・・・・」

 「・・・・・・・・ふん、わらわは雪よりも下か。つまらぬ、わらわはつまらぬ!わらわの召使いだというのに、わらわを優先せずにしてどうするというのじゃ!・・・・・・・・確かに雪は、とても美しいと思うがな。」

 

 マルレインは自分が雪に負けたのが嫌なのか、それともまさか雪に対して嫉妬でもしたのか、一気に不機嫌になった。慌ててルカは否定する。雪は確かに綺麗だが、自分が見惚れたのはそれだけが理由ではない。延々と降り積もる雪を見ていると、柱時計の音をずっと聞いている時と同じような、穏やかな心になっていく感覚についつい目が離せなくなったのだ。美しさならば、先ほど見たマルレインの湯着姿のほうが上だとルカは思う。恥ずかしくて目を背けてしまったけれど。
 しかしそれを言葉にできるわけもなく、ルカは「そんなことない」と言うしかできなかった。マルレインはいつものワガママな調子に戻り、ぶりぶりと怒りながら王女の権力を行使した。

 

 「大体じゃな。わらわがこうしてくつろいでおるというのに、お前は気の利いた面白い話のひとつも話せぬのか?何かわらわを楽しませる話を持て、ルカ。あと入浴後にはミルクティーを淹れよ。それから後でわらわの靴を磨け。」

 「この小娘が!余の子分を扱き使うなっ!・・・ふん、王女で世間知らずのキサマは知らんだろうな。温泉やらの入浴後に飲むものは牛乳が定番なのだぞ?ククク、紅茶なぞは食後にでも飲めばよいのだ。」

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべるスタン。しかし言っていることが庶民的だ。
 マルレインは自分が知らないことを指摘され、少しむっとした表情になる。だが負けず嫌いである彼女に、諦めという言葉は無い。

 

 「う・・・・ならば、わらわとてお前の知らぬことを知っておるぞ。紅茶風呂や牛乳風呂に入ったことがあるか?紅茶も牛乳も飲むこと以外にも使えるものなのじゃぞ。ふふん、しょせん影の体であるお前には縁が無いものじゃがな。」

 「あら、王女様もそういうのやるんですか、やっぱり?あたしも時々するんですよ。湯の色がキレイになるし、美肌効果もあるし。」

 「おお、ロザリーも知っておるのか。わらわはよく城で入っておってな・・・・ワインやハチミツも入れたことがあるな。」

 「へぇー、さすが王女様ですね。いろいろ工夫してるのね・・・・」

 

 マルレインとロザリーの女の子同士の会話が突然盛り上がり、スタンは言い返そうとしたがタイミングを逃してしまった。
 しかもそこに、キスリングも解説を入れてくる。

 

 「うんうん。どれも肌をなめらかにして健康にも良いから、入れて損は無いね!紅茶に含まれる成分は肌のほてりを沈め、ワインに含まれるビタミンは血行を良くし、体を温めてくれる。牛乳風呂なんて、遠い国の美しい女王が愛用したと言う伝説もあるんだ。マルレイン王女にはぴったりだと思うね!」

 「なるほど、だから王女様は肌が白くてつやつやしててキレイなのね。いいわー、あたしも今度いろいろやってみようかな・・・・ワインはちょっと高いけど。」

 「ワインは安いものでもよいのじゃぞ。赤ワインなら、お湯も宝石のような色になってさらに美しいからのう。」

 「さまざまな成分が混じったものを湯に入れる・・・・さまざまな成分という共通点では、温泉も同じだね!温泉は天然に作られた湯だからこそ、身体の健康を促すようなあらゆる成分が混じっていてね、牛乳などと同じように美肌効果もあるのだよ。」

 

 3人で風呂の話が続いてしまい、スタンは口が挟めず、置いてきぼりを食らった。
 大体、魔王は風呂には入らないし今は入れもしない。風呂の話もできるはずが無いのである。
 思いがけずショックを受けるスタンを、ルカは笑いを堪えながら見ていた。
 スタンはぶるぶると身を震わせる。

 

 「ぐっ・・・・!紅茶やら牛乳やら、風呂に入れたらどうせ湯が臭くなってベタつくだけだ!・・・・・・・・・・・・実体を取り戻したら絶対に入ってやる・・・・。」

 「魔王がお風呂でくつろぐなんてヘンだって言ったの自分じゃん・・・・。話についていけないからって、無理しないほうがいいんじゃないの?」

 

 厳かな魔王の入浴シーンなんて、全く想像がつかない。想像できたとしても、気持ち悪いものばかりである。
 魔王はもちろんオバケはお風呂になんて入らなさそうなイメージがあるのだが、これは間違いなのだろうか。しかし、オバケで魔族である巨牛魔王はこの温泉を愛用しているようだし、意外だが人間と同じようにキレイ好きなオバケもいるのかもしれない。

 

 「子分こそ話についていけてないクセに、何を偉そうに言っておるのだ。ていうか子分のクセにナマイキな。」

 「ボクはもともとお風呂の話には興味ないし・・・・。」

 

 別に風呂に何も入れなくても、汗は流せるのだからよいではないか。美肌のために色々なものを入れたり、石鹸を変えたりするのは、ルカには面倒なことにしか思えなかった。そういえば母やアニーも、肌や髪の美しさを保つために様々な方法を試していた。・・・・あるいはそのようにあらゆる方法を試し、効果を調べるのも彼女たちは楽しんでいるのかもしれない。

 お肌や髪の具合なんてルカが気にかけることもないものだが、女の子は自分がキレイでいたいという願望が強い。そのままでも充分綺麗だとしても、常に今以上になることを望んでいる。
 でも、その理由って何なのだろう。誰かに見てもらいたいためかもしれないし、自分自身を輝かせたいためかもしれない。・・・ルカだってその気持ちはわからなくもないし、可愛く魅力的な女の子も嫌いじゃない。きっと綺麗でいたいという願望は、誰かに見つけてもらいたいという願望と同じなのではないか。
 女の子って、みんなそうなのかな。誰かに見つけてもらうために、綺麗になるのだろうか。
 ―――まるでお花みたいだ、と思った。虫や鳥の目を引くために咲く、色とりどりの花のよう。

 ルカも花は好きだった。この極寒の地には無縁なものだけど。
 この場所に今花が咲いているとしたら、自分の手の中にある、美しい色とは程遠い鈍色の歯車くらいだ。しかし、この花はきらりと輝くことで自分の目を引いた。咲き方も花びらの色も、花それぞれだ。

 花といえば―――
 ルカは、すぐ目の前にいるマルレインを見た。彼女はいまやロザリーたちと楽しそうに話し込んでいて、ルカへ命令したことはすっかり忘れてしまっているようだ。
 マルレインは王女様だし、容姿もその立場に恥じない美しさだから、誰の目も引くだろう。いや、現に今までだって注目されてきていたのだ。王女だから誰からも存在を見つけられて、『岩ガメと石コロの話』の子ガメのように、居場所を失うようなことも無いに違いない。今までも、これからも、きっとそうなのだ。
 マルレイン王女は、どんな人よりも目立って輝いている花のように見えた。塗り潰す雪が彼女の存在を消そうとしても、彼女は消えることがない。冷たい雪の中であったとしても彼女は、大きく美しく、華やかに咲き続けることができるのだろう。
 道端の雑草のように地味な自分とは違って。

 マルレインは胸元まで湯につかり、胸より下は歪んだ水面で掻き消えている。お風呂の話をしているその後ろ姿。彼女が笑った拍子に、結われた髪が馬のしっぽのように揺れ、白いうなじが一瞬姿を現す。
 艶やかさが垣間見えて、ルカは少し、ドキリとした。

 

 

 「―――っ!?」

 

 ルカは一瞬、自分の目を疑った。
 ―――今、何か・・・・異様なものが見えたような・・・・。

 マルレインの首は、もう髪に隠れてしまっていた。今は確認ができないが・・・・さっきの異様な何かが頭をよぎる。
 マルレインの、シミひとつない白い襟首に、白の中を横切る黒い筋が見えたのだ。まるで肌と肌・・・・胴体と首を繋ぎ合わせたかのような、繋ぎ目のような線だった。シミでも傷でもなく、立体的で丸みを帯びた割れ目のようで、まるで球体が嵌め込まれていたように見えたが・・・そんなもの、人間の肌にあるわけがない。あったらすでにその肌の割れ目から、赤い雫が噴き出しているはずなのだ。しかし、一瞬だったためはっきり見えず、正直本当に見たのかさえ自信が無い。
 ・・・・しかし、頭の中には違和感が残っている。気のせいだと首を振っても、脳裏に張り付いて離れない。

 その違和感の真実を確かめるために、ルカは今まで目を逸らしていた彼女の姿を凝視した。髪に隠れた襟首付近をじっと見る。

 先ほどと様子が変わったルカを、スタンが訝しげに覗きこんだ。

 

 「小娘がどうかしたのか、子分。まさかお前、実はむっつりスケベだったりするのだな?いやーん、やーらしー。えっちー。」

 「ち、違っ。だから違うってば・・・・っ。そう言うスタンがやらしいよ。ボクは別に何も・・・・」

 

 その時、またマルレインの髪が揺れた。白い襟首が見え、ルカは硬直する。
 髪の下の首には・・・・黒い筋など、どこにも横切っていなかった。シミひとつないただなめらかな肌が、髪の影でぼんやりとした黒に染まっているだけである。どう見ても異常も違和感も一切ない、歪みなく整っている綺麗なうなじだ。

 

 「あれ?」

 

 おかしい。先ほどは確かに、黒い線が見えた気がするのだが。やはり気のせいだったのだろうか?
 再び髪は元の位置に戻り、襟首は見えなくなっている。
 さっきの割れたような筋は、一体何だったのだろう。人間の肌にはありえない、繋ぎ目のような線。丸みを帯びた奇妙な割れ目。
 ・・・・きっと自分がのぼせたせいか、または目の前の湯気の中で、髪の毛か何かを見間違えたのだ。
 そう決め付ける。が、一応確認のためマルレインの隣へ移動し、首が髪に隠れない位置から首元をよく見てみた。ついでに、体全体に違和感が無いか、くまなく確かめる。

 やっぱり・・・・無い。黒い繋ぎ目なんてどこにも無い。白い肌があるだけだ。
 ルカはどこか安心し、ほっとため息をついた。
 しかし、目の前のマルレインが焦ったような表情でルカを見ている。

 心なしか、顔を赤くして。

 

 「る、ルカ、何をジロジロと見ておる・・・・。」

 「え?」

 「こ・・・・このたわけが!ぶぶ、無礼者・・・・っ!」

 

 ―――ダァンッ!

 

 

 マルレインの平手打ちが、久しぶりに炸裂した。これで2度目である。・・・・しかし、一緒に温泉に入るのだから、こういう展開も何となく想定していた気もする。旅をしたおかげもあってか、彼女の攻撃力は前よりも高くなっている気がした。
 あまりの無様さに大爆笑しているスタン、唖然としているロザリー、微笑ましそうに笑っているキスリングを視界に映しながら、ルカは温泉の湯の中に倒れこんだ。ばしゃーんという大げさな水音も立てて。
 でも、マルレインは怒りながらも照れて、そして困ったように笑っていたと思う。平手に二度もKOされたルカの身を案じることは無いだろうが。













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