ボクと魔王と雪の花




 






 ルカはきょろきょろと辺りを見回していた。
 正に白銀の世界が目の前に広がっている。自分が踏んでいる、この白いものは何なのだろう?柔らかいが、触れるとすごく冷たくてすぐに溶けてしまう。しかし、それがとても儚く美しい。
 しかし、空気も今まで居た場所とは違い、冷たくてまるで肌を刺すかのようだ。風が吹いていない分まだマシだが、寒いものは寒い。横断トンネルを抜ける前は、あんなにも暑かったというのに・・・・打って変わったような気温に、脇腹の汗が急速に冷えてゆく。
 先ほど、巨牛魔王と名乗る筋肉質な体を持つ男と出会ったが、彼はこのような寒さの中でも異常としか思えない薄着だった。体を鍛えているからこの寒さでも平気だったのか、魔族だから気温の影響を受けないほど体が丈夫なのか、常に熱気で溢れているから寒さを感じないのか、それとも単にただのバカなのか。
 いや、彼が寒がらない理由などどうでもいいのだ。こんな辺境の地にまで同行してきたロザリーやキスリングも、流石に寒そうにしている。しかし、体を鍛えていない上に半袖であるルカよりはまだ平気そうだ。ロザリーは白い羽織を着ているし、キスリングも長袖の白衣を着ているのだから。それに比べてルカはというと、ぶるぶると細かく震えていた。
 とりあえず、目の前の白いものよりもこの寒さを何とかしなければ。そう思い、しゃがんで鞄の中を漁った。

 

 「寒い。」

 「へ?」

 

 声が聞こえた。鞄の中から亜麻色のマントを引っ張り出しながら、ルカは横を見上げた。
 マルレイン王女だった。銀色の絨毯に反射した日光が地面から彼女を照らし、その赤い衣服と白い肌を仄かに輝かせている。真っ白な景色を背景にすると、儚げな雰囲気もプラスされ彼女の美しさを更に引き立たせるかのようだ。
 そんなマルレイン自身はあまり寒そうにしている素振りを見せず、いつも通り腰に手を当てていた。そしてルカを見下ろしてもう一度言った。

 

 「寒い。」

 「・・・・えー・・・・と・・・・」

 「何じゃ、聞こえなかったのか?ルカ、寒いぞ!わらわを温めるものを何か献上せよ!」

 

 その美しい王女から発せられる言葉は、ワガママ娘のそれだった。
 突然の言葉に、ルカは思わず手を止める。
 そこの言葉を聞いた女勇者ロザリーが、慌てたようにマルレインに駆け寄ってきた。

 

 「そ、そうよ王女様!そのお姿のままでは風邪を引かれてしまいますわ!あああ、このあたしがなんつー不覚を・・・・も、申し訳ありません!」

 「うむ、そういうことじゃ。だからルカよ、わらわが風邪を引く前に何とかするのじゃ。」

 (・・・・寒がっているにしてはずいぶんと口調が穏やかだなぁ・・・・)

 

 それよりボクも寒いんだけど、とはさすがに言えなかった。
 そんな自分の手には、先ほど鞄から引っ張り出した上着。昨日、リシェロの村でキスリングからもらった、大き目の古いけど温かそうなマント。そして自分の視線の先には、睨みを効かせて見つめてくるマルレイン。その後ろには、マルレインを心配するように騒ぐロザリー。そのまた後ろには、いやし系の色をしたウサギと(無理矢理)戯れるキスリング。
 ・・・・これはつまり、自分が何とかしなければいけないのか。
 この温かい防寒着を犠牲にして?

 

 「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・ルカ?」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・どうぞ・・・・。」

 

 自分が着たい衝動をぐっと堪えて、ルカはマントをマルレインに差し出した。
 途端にマルレインは顔を綻ばせ、にっこりと笑って受け取る。

 

 「ふふふ、さすがはわらわの召使いじゃ。わらわのためにわざわざ用意しておくとは、なんと準備のよいことよ。褒めてつかわすぞ。」

 

 褒められてもあんまり嬉しくなかった。
 大体それはキスリングがルカにくれたものなのだが、マルレインは知るよしもない。

 

 「ごめんねルカ君、君をそんな寒そうな格好にさせたままで・・・・でも王女様が寒がっておられるのに、それを放っておくわけにはいかないもの。これ、ありがたく借りるわね!」

 

 ロザリーは悲しそうに瞼を伏せたあと、すぐに顔を上げてウィンクした。そしてマルレインにマントを着せ始める。
 それを呆然と見つめるルカ。服の半袖から晒したままの腕に、ぶわりと鳥肌が立っていた。
 ・・・・寒い。
 そんな様子のルカに気づいたキスリングが、いやし系ウサギを半ば締め上げるようにして腕に抱きながら、にこやかに笑って近寄ってきた。

 

 「おやおや。君に渡した私の服を彼女にあげちゃったのかい?寒がる娘にそっと上着をかけてやるその精神・・・・うんうん、君がするとはなかなか意外だがとても立派な選択だよ!そこでこの寒さに耐えてみせればもっと高得点だろうね。」

 「・・・・・・・・さぶっ。」

 「身に感じる寒さなんて君の心次第で変わるものだよ!聞いたところによると子供は風の子といって、寒いことは気にせず目の前にある楽しみに飛び込んでいくことを表しているそうだね。つまり寒いという感情を上回る感動で抑制すれば、こんな雪の中の寒ささえも感じなくなってしまうのだよ!」

 「ユキ?」

 

 聞き慣れない単語に、ルカは身をさすりながら聞き返した。

 

 「ん?ああ、これこれ。この地表面に堆積しているものが雪だよ。君はテネル村から出たことないようだから、雪を見るのはこれが初めてかな?実はというと・・・・私はいつもオバケに対し環境と気温の変化による影響を観察する研究で人工雪を作成し使用しているのだが、天然の雪を見るのは私も初めてだよ!いやー、まさかこんなにやわらかいものだったとはね!この地に生息するオバケちゃんがどんな生態を持っているのか、またひとつ研究対象が増えて嬉しいよ・・・・ぐふふ・・・・」

 

 だんだんキスリングの目の色が変わってきた。腕で締め上げているウサギが悲鳴を上げている。
 それが少し可哀想に見えたが、放してあげたところで襲い掛かられても困るので放置することにした。
 いや、そんなことよりも。

 

 「雪・・・・」

 

 ルカは足元に敷かれているそれを、まじまじと見た。
 テネルやマドリル、リシェロの方面はあまり雪が降らない地域であるため、一面真っ白に積もっているこの雪の存在はなんだか新鮮だ。本や村の大人たちの話からその存在は聞いたことはあったし一応知っていたが、実際にこれだけたくさん積もっているところを見るのはこれが初めてかもしれない。そういえば結構前、村を歩いていたときに白いものが降ってきたことがあったが、たしかあれも雪だったはずだ。外に出て珍しいと騒ぐ大人たちが言っていた。てっきり植物の種の綿毛かと思っていたけれど、あんなに寒い日に、しかも空から降ってきたのだから種ではないはずなのだ。

 

 「ふむ。言われてみれば、これは美しい光景じゃな。」

 

 いつの間にか隣に、ロザリーと一緒に丈の長いマントを着て手足が見えなくなったマルレインが立っていた。驚きで目を見開き、そしてうっとりとその雪景色を眺めている。
 ルカも同じように見渡してみる。遠く、霞むその果てまで続くような雪原、日光に当たってキラキラと輝くその白い絨毯の風景は、肌に触れる寒ささえ忘れてしまうかのような美しさだ。キスリングがさっき言っていたことも、今ならわかる気がする。

 

 「王女様は、雪を見るのは初めてですか?」

 「いや、ずっと昔に見た覚えがある。・・・・ただ冷たいだけかと思ったが、よくよく見ればこんなにきれいなものじゃったとは思わなんだ。真っ白くて、やわらかくて、見ていると心が躍るのう。まさかトンネルを潜った先が、このような場所に繋がっておったとは・・・・」

 

 やはり、彼女にも無邪気な一面はあるらしい。キョロリと辺りを見回し、惹かれるようにしゃがんで足元の雪に触れている。ロザリーが横で、微笑ましいものを見るように笑っていた。
 ルカも彼女と同じく、雪を目の前にしてどこか心が躍っていた。今までずっと森や平原などのカラフルな景色しか知らなかった分、見渡す限り銀世界のこの場所は珍しい光景だった。自称魔王スタンに無理矢理旅立たされてから随分経ち、ついにこんな未知の場所まで来てしまったが、思っていたより面白い経験をしているような気がする。
 しかし・・・・この地域は一年中、こんなに雪が積もっているのだろうか。寒いし食料も無さそうだし、テネルに比べたら非常に住みにくそうである。第一、こんな場所に人が住んでいるとは思えない。このような環境の中で暮らしているオバケたちは、きっとかなり強いに違いないだろう。
 そう思った途端、背中に寒気が走った。思わず身震いする。
 その震えを見て煽られたのか、ロザリーもぶるっと震えて体を抱きしめた。

 

 「う〜っ、さっむーい。というか今まで牛魔王と会ったり雪に感動したりで忘れかけてたけど、ここって寒すぎて凍え死にそうよ!もしオバケに会っても対応できるかどうか・・・・早くどこかで温まりたいわよ、もう!」

 「ああ、この地に潜むオバケちゃんたち・・・・。一刻も早く会ってみたいね!ふふふ、オバケちゃんに会う楽しみのためなら、例え寒くてこの身が凍ってしまっても特にかまわないよ!」

 

 寒さで震えるロザリーと、武者震いするキスリング。言っていることがまるで逆である。正に風の子と火の子を典型的に表しているかのようだった。キスリングも大の大人だが。
 彼の輝く瞳と怪しげなオーラに、尋常ではない何かを感じ取ったルカは何も言えず、ただ黙って後ずさりした。代わりにマルレインがキスリングに反論する。

 

 「わらわは嫌じゃ!凍りつくのはお前の勝手じゃが、お前たちがオバケと戦っておる間、わらわをこのような寒い場所で待たせるつもりか!ルカ、ロザリー、キスリング。わらわは寒い、そして喉も渇いた。早く帰りたいが、わらわはこの雪をもう少し見ていたいのじゃ。だから今すぐ宿屋をこの地から探し出し、ルカはわらわに熱い紅茶を淹れよ!」

 「は、はい!」

 

 威圧的に命令を下したマルレインに、ロザリーが慌ててお辞儀をした。
 しかし、返事はしたものの・・・・どうしたものか。
 マルレインは再びしゃがみ、雪で団子を作り始めた。3人はマルレインに聞かれないように、こっそりと会議する。

 

 「こんな辺境の地に、宿屋なんてあるのかしら・・・・というか、こんな雪原に人が住んでるかさえも怪しいわね。」

 「魔王のための物資や人員を提供する場所って聞いてたけど・・・・それらしいものも見当たらないし・・・・。これは素直に帰ったほうがいいんじゃ・・・・・・・・さっきのニセ魔王も追いかけないといけないし。というか、もう目的のニセ魔王は見つけたわけだし・・・・」

 

 マルレインには悪いが、ここは引き返したほうが得策だろう。せっかくやってきた雪原なのだから、もっとくまなく探索したいのは山々だが・・・・今は目の前に見える目標を追いかけて行動した方がよいかもしれない。
 しかしキスリングは、「チッチッチ」という舌打ちをしながら口元に人差し指を当て、にやりと笑っていた。

 

 「・・・・ふふふ・・・・甘いねルカ君。一見だけで物事を全て決めつけてはいけないよ。雪原の向こう、霞んだ白い光のその先に、もしかしたら君たちの考えを覆す何かが待っているかもしれないじゃないか!それは人でもオバケでもありうることであってね、例えばこーんな寒い場所で生きていける元気なオバケちゃんがいるかもしれないし、それと同じ理屈でこーんな寒い場所でも生きていけている人がいるかもしれない。つまりだね、世界は広いってことさ!」

 

 キスリングは熱弁するが、ロザリーとルカの表情はまるで信じていない。うんざりした様子で、顔には「えぇー・・・・」と書かれている。
 キラキラと輝く彼に、ロザリーが呆れたように問う。

 

 「・・・・その熱弁の根拠は?」

 「実は私も、最初はこんな場所に人が住んでいるとは考えられなかったんだけどね。決めつけるのはいけない、なぜなら世界は広いからさ!その広さを信じれば、可能性も大きく広がるっていうことだね!」

 「グローバルな視野を持つのは良いことだと思うわよ。でもね、話の論点に戻ってくれない?」

 「ああ、宿屋を探すんだろう?そんなもの、視野を大きくして見れば見つかるのだよ。ほら、実はそこに。」

 「あーっそう・・・・・・・・・・・・・・・・うそっ!?」

 

 キスリングの指差す先に勢いよく振り返ると、少し行った先の道の端っこに、手前の樹木の葉に隠れるように一軒の木造の黒い建物が建っていた。

 

 「ほ、本当だ・・・・」

 

 こんな場所に、しかもこんなに近くにあったとは。ルカはロザリー共々唖然とした。
 大木を刳り貫いた小屋と丸太で組まれた小屋が合わさったかのような三角屋根の家で、その風貌は雪国に住むと言われる小人の住処を思わせる。よく見れば建物の扉付近は雪掻きが行われていて、人が生活している跡があった。山小屋のような風貌だが、テラスも設置されている大きな家だ。しかも傍には、湯気が立っている泉もある。温泉―――だろうか。

 

 「ふふふ、すぐ傍にあったことに気づかなかったとは正に灯台下暗しだね!ちょっと視野を広めて見るだけで見えるものがあるってことに気をつけておかないと、思わぬ見落としをするかもしれないよ。覚えておきたまえ。」

 「でも、あれが本当に宿屋かなんて分からないわよ。もしかしたらただの民家かもしれないじゃない。」

 「しかし、このような場所でも人が住んでいることは確かだ。あの家の住人から、宿屋かまたは村なんかの情報を聞き出せば良いんじゃないかな。それに目の前に建物があったとして、入らないで立ち去る人間が一体どこにいるというのかね?開きそうな扉があれば開ける。つまり扉は開けるためにあり、そして私たちは扉を開けるためにいるのだよ!」

 

 この博士の熱烈な論破は、この土地に住むオバケたちに対する好奇心故に発せられるものなのか。彼はマルレイン以上にこの地に居座る気が満々のようだ。
 やれやれ、とロザリーは頭を振る。彼を言葉で丸め込むのは、マルレイン以上に難しいのだ。口先で彼に勝てるのは、ルカの父親かジェームスくらいしかいないだろう。
 それに、リシェロから横断トンネルを通ってここまでやってきたのだから、さすがに疲れた。もし宿屋だったら、ありがたく利用させてもらおう。宿屋じゃなくても、何かニセ魔王についての情報を聞き出せるかもしれない。

 

 「はーあ、わかったわよ・・・・。とりあえず行ってみましょ。ここにずっと立っているよりは、寒さをしのげられるでしょうし。」

 「そうこなくてはね!そうと決まれば話が早い、急いで行こうか!ふふふ、ずっと話していたせいでオバケちゃんも集まってきちゃったしねぇ。私としては大歓迎だが。」

 「そうねぇ・・・・・・・・・・・・―――オバケ!?」

 

 キスリングのさり気なく言った言葉に、ロザリーは再び背後を振り返った。
 ペンギンとタマネギとピンク色のゾウの姿をしたオバケたちが、丁度飛び掛ってくるところだった。
 ルカが慌てて剣を抜くが、不意打ちだったので避けきれず、ペンギンとタマネギに噛みつかれてしまう。

 

 「いててっ!」

 「何をぼうっとしておるのじゃ、お前たち!ちゃんと周りを見ぬか。情けないのう。」

 「ふん、さっさと動かずに話し込んでおるからこうなるのだ。雪原探索なぞ後にして、ちゃっちゃかあの筋肉ダルマを追えばよかったものを。情けないな。」

 

 雪団子を作るのをやめたマルレインと、ルカの影を借りて瞬時に姿を現したスタンが同時に責め立てた。
 高飛車な非戦闘隊員コンビからの難詰に、若干落ち込んだり腹を立てたりしながらも、ロザリーもレイピアを抜く。
 すでにキスリングは研究書を両手に、オバケたちに向かってハートを振り撒きながら猛突進していた。彼が抱いていたウサギは、その気迫に怯えるように逃げ出している。そんな彼を見たルカとロザリーも、渋々暴れペンギンたちと向かい合った。
 背後のスタンも巨大化し、パーティー内は一時戦闘モードに入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その建物は本当に宿屋だった。しかも、あまり見たことがない温泉宿だ。
 この地域では天然温泉が湧き出るらしい。

 建物内は外の寒さとは打って変わって暖かく、カントリー風の素朴なデザインの装飾がされていた。
 湯冶客も何人か宿泊しており、この宿の温泉は隠れた名所なのだという。ビッグブルという格闘チャンプの魔物もこの温泉宿の常連らしく、雪国に住む者たちの癒しの場でもあるようだ。
 「ビッグブル」の名を持つ魔物の格闘男・・・考えなくてもわかる。先ほどスタンに宣戦布告をしていた、筋肉ダルマの巨牛魔王のことだろう。かりにも魔王だというのに、人間とずいぶん馴染んでいるものだ。本当の魔王であるスタンには敵意が剥き出しだったというのに。むしろスタンのことは、「魔王」ではなく「強そうな男」としてしか見ていないようにも見えた。彼は魔王としての自覚がない、と言うよりも魔王という器に振り回されていないようだ。あの様子だと彼は「魔王」という立場を、「オバケの中で一番強いオバケ」という風にしか考えていないのではないか。本当の魔王になろうと四苦八苦していた今までのニセ魔王たちに比べれば、結構異端な存在のように感じる。・・・・まあ、今までの魔王もそれほど魔王らしくはなかったが。

 巨牛魔王のことはひとまず置いておこう、どうせ後で会うことになるのだ―――そう思い、ルカは3人分の紅茶をそれぞれのティーカップにぎこちなく注いだ。マルレインの分と、キスリングの分と、自分の分である。ロザリーは今、部屋を出て宿のロビーに下りているからいらないはずだ。
 この部屋は、宿のオーナーに案内された2階にある客室である。三角屋根の裏部屋らしく、天井が低いが2人が寝るには充分だった。その2人用の部屋を2室借りて、今晩は泊まることにしている。ベッドの掛け布団は、今まで見てきたどの布団よりも厚く、ふかふかで暖かそうだった。雪国だから、夜は今よりももっと冷えるのだろう。

 

 「ピンク色のあのゾウ・・・・ああ、なんて可憐で美麗な桃色をしていたんだ・・・・!ルーミル平原のゾウとはどんな違いがあるのかなあ・・・体色はモモ色なのにオレンジ味のキャンディを落としたのは一体どんな意味があるのだろうか・・・・」

 

 キスリングは小さな机の上の書類に向かって、何か呟きながらひたすら鉛筆を走らせている。たまに分厚い図鑑をペラペラと捲ってはにやけ・・・・どうやら早速、先ほど出会ったオバケについてまとめているらしい。常人には理解できない、オバケ学者としての世界に浸っているようだ。
 机の隅にそうっと紅茶を淹れたカップを置くが、彼が気づいている様子はなかった。すっかり夢中のようである。邪魔してはいけない(そして関わりたくない)と思い、キスリングを横目にルカは、2人分のティーカップを乗せたお盆を持って部屋を出た。

 

 

 部屋の向かい側には、マルレインとロザリーの泊まる部屋がある。狭く細い廊下を横切り、扉をノックして開けた。
 部屋に入ると、マルレインが椅子に座って細長い窓の外を眺めていた。窓の外は日暮れが近いようで、ほんのり夕焼け色の曇り空で薄暗く、雪が舞い始めている。
 ルカはマルレインの傍へ近寄り、ティーカップを差し出した。カップの中には、透き通っているが深い紅色の混ざった琥珀色の紅茶。マルレインが好んでいる茶葉で淹れたお茶だった。ごくろうじゃったな、と言って受け取ったマルレインは、優雅にそれを一口飲んでみせる。湯気が白く見えるくらいに熱いはずだが、飲んで戸惑った様子はない。

 

 「・・・・・・・・味は・・・・。ふう、まだまだじゃな。蒸らしすぎじゃ、渋い。」

 

 マルレインの厳しい評価に、ルカは困ったように項垂れた。これでも少しは上手くなったはずなのだが・・・・。今までも彼女の命令で、幾度も紅茶を淹れてきたのである。
 もともとは紅茶なんて、飲むことさえなかったのだ。マルレインに命令されたことでロザリーに淹れ方を教えてもらい、最近やっと覚えたところだった。王室の姫が満足するような紅茶など、素人の自分に淹れられるはずが無い。彼女は毎回ルカ自身に紅茶を淹れさせるが、そのようなことは自分よりは慣れているロザリーにさせればいいのに、と時折思う。いや、それよりも自分で淹れたほうがおいしいのではないか。
 ・・・・もしかしたら彼女は、ルカの母に料理を教えてもらっていたあたり、自分で家事をするということはしないのかもしれない。彼女の性格からして、いつも侍従にさせているのだろう。
 常に侍従を供にして暮らすというという生活は、一体どんな感じなのだろうか。普通の村人として生活しているルカには、全く想像できなかった。

 しかし、マルレインは彼の淹れる紅茶をあげつらうものの、飲まないということはしなかった。顔を顰めること無く、そのまま渋いらしい紅茶を飲みながら、マルレインは窓の外に再び顔を向けた。さっき言っていた「雪を見ていたい」という望みからして、窓の外の雪景色を眺めているようだ。
 ルカも傍のふかふかベッドに腰掛けて、その様子を見ながら紅茶を飲む。
 ・・・・確かに少し渋いかもしれない。ちょっぴり舌がざらざらした。
 部屋の中には、ガラス窓の表面から伝わってくる冷たい空気と室内の暖かい空気、紅茶の香りと木の香りが混ぜこぜになっていた。窓の外は雪がちらちらと舞っているが、風は無いらしい。ロビーの談笑する声がかすかに聞こえるくらいで、室内は静かだった。

 

 

 「雪はええのう。」

 

 ちびちびと自作紅茶をすすっていると、窓の外を見たままマルレインが呟いた。

 

 「雪は・・・・あんなに冷たくて怖いのに、その色とやわらかさはまるで温かい。真っ白で全部覆ってしまうその様は・・・・綺麗なはずがどこか恐ろしく感じる。全ての存在を掻き消すようなのに、ひとつの存在を目立たせるかのよう・・・・」

 

 真っ白な雪原の中の、動き回る色のついたオバケの点。マルレインはそれを見ている。
 椅子に座っている彼女は、窓に顔を向けていて表情がよく見えない。しかし、その雪に対する言葉の調子は、楽しんでいるようにも哀しんでいるようにも聞こえた。
 言葉の意味が理解できず、ルカは返答に悩み無言でいた。しかし、マルレインは笑う。

 

 「ふふふ、まるであべこべじゃな。しかし昔はただ恐ろしかったというのに、今はおもしろいものにも見えるのはなぜじゃろうな?」

 「何を言っておるのだキサマは。もう少し余にも理解できる言葉で言え。」

 

 ひょい、といつものことながら突然スタンが姿を現し、ルカに代わって返答した。ベッドに腰掛けるルカの影が起き上がり、喋り出したのだ。ルカとスタンは常に一緒にいるため、姿を現さずとも会話の内容は聞こえているらしい。
 しかしその影魔王の空気の読めていない発言からか、マルレインは途端にむっとしたような表情になり、横目で彼を睨んだ。

 

 「わらわは誰にも言っておらぬ。しょせん、お前のようなガサツな者には理解できぬことじゃ!」

 「ならば喋るな、あーうっとうしい!ただ白くてすぐ溶けてしまうようなものを、やれおもしろいだ、やれ恐ろしいだなどと・・・・人間とはつくづくよくわからんな。」

 

 ツン、とそっぽを向いて、マルレインは再び窓の外を眺める。機嫌を損ねてしまったらしい。ガサツな者には理解できない・・・・ということは、自分もガサツなのだろうか。
 ルカはどうすればいいかわからず、行き場のない視線を彷徨わせる。そして自然に、背後のスタンに話しかける形になってしまった。

 

 「スタンは雪、嫌いなの?」

 「興味の無いものに対して好き嫌いなぞ関係ないわ。子分は道端に生えた雑草が好きか嫌いか問われたら、それに答えるのか?余にとっては雪なんぞ、その程度のものだ。おもしろくもなんともないな。」

 

 ルカの質問にスタンはさらりと即答した。マルレインが再び睨むように目を細める。

 

 「魔王というものとはつまらぬ。わらわのように美しいものを見る目が無いとは、なんとかわいそうなことよ。」

 「クックック・・・・お前たちが美しいと思うものは、いつか余が全て踏み潰してやるわ!余が実体を取り戻したら、こんな真っ白な雪も余の足で思いっ切り足跡をつけてやる。ああ、炎で雪を全部溶かしてしまうのも良いな。クククク、お前たちの絶望する顔を見るのが楽しみだ。そう考えれば、雪というものも悪くはないな、ククク!」

 

 スタンは笑い出すのを堪える様に、顔を俯けて低く笑った。その姿はまるで悪者のようだが、言っている内容は薄い。
 彼の考えは魔王らしく捻じ曲がっているが、どこか抜けている気がする。この魔王は子供じみた悪戯しか思いつかないのだろうか。中々に悪いことを思いついて実行したとしても、結局どうせ失敗するのがオチである。彼の魔王としての取り柄は、魔力くらいしか無いのかもしれない。・・・・もっとも、他のニセ魔王たちに比べればまだよいほうだが。
 面白いことを思いついて笑うスタンに、ルカはため息をついた。
 雪が全部溶けてしまえば、人々にとって暖かい「春」が来る。スタンはそれに気がついていない。雪に馴染みのない彼らが気づかないのも仕方のないことなのだが。

 

 紅茶を全部飲んだところで、この宿には温泉があることを思い出した。
 ルカは温泉に入った経験が全くない。雪もあれば温泉もある・・・・この未知の土地には、ルカにとっての未知の存在もたくさんある。土地の雰囲気も今までとまったく異なり、新鮮な気分だ。元々・会長魔王が言っていた、「世界の外」とつながる場所だからなのだろうか。・・・・世界に「内」も「外」もあるのかはよくわからないが。
 そういえば、何故こんな客が来るかも怪しい場所に、宿が経営されているのだろう?温泉が湧き出るのはこの地だけだから・・・・と言われればそれまでだが、この場所が「世界の外」に近い場所だというのなら、そして世界の魔王のための人員や物資を供給するための場所なら、そこに普通に人が住んでいるのはどうも不自然な気がする。
 とりあえず、ロビーに下りよう。紅茶も全部飲んでしまったし、できるなら温泉にも入りたい。
 そう思い、ルカは立ち上がった。背後のスタンも引っ込んで、影は本来の姿へと戻る。

 

 「マルレイン、・・・・王女様。温泉のことについてちょっと聞いてきます・・・・」

 「そうか。ごくろうじゃった、ルカ。わらわも後で下におりるゆえ、先に行くがよい。」

 

 ルカはうなずき、空のティーカップを乗せたお盆を持って、そそくさと部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 2階の扉を開けた瞬間、ばったりとキスリングの後ろ姿に遭遇した。

 

 「 3 ・ 2 ・ 1 。バンジーーーー!!」

 「うっわ!?・・・・・・・・・・・・キスリングさん。なにしてるんですかそこで。」

 

 吹き抜け廊下の突き当たりの柵のない縁で、先ほどまで部屋にいたはずのキスリングが、いったい何がしたいのか両手を広げて仁王立ちをしていた。なんだか妙に鬼気迫る様子で。
 ・・・・オバケ資料のまとめはもう済んだのだろうか。しかしだからといって、なぜここにいるのか。

 

 「・・・・・・・・・・・・飛べない。」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 

 ・・・・・・・・命綱なしで2階から飛び降りたところで、顔面から床に激突するだけだと思う。
 なんだか悲しげな声で呟きそのまま立ち尽くすよくわからない学者を、ルカはとりあえずそっとしておいてあげることにした。

 

 円形の吹き抜けの壁に沿って造られた木製の階段をゆっくり下りていくと、広いようで狭い広間の中央、樹幹のテーブルの傍の椅子に座っているロザリーが目に入った。やはりピンクの日傘は差したままだが。
 赤と緑と白の糸で織られた絨毯や、樹木の洞の独特な壁の色や空気には、冬国の建物ならではの温もりがある。床も壁も樹木の年輪や幹模様で描かれ、まるで樹木の幹の中にいるように見える。建物の外見と同じように、小人の家を思わせるかわいらしい雰囲気だ。しかし、ロザリーの他にも湯冶客が数人談笑しているその空間は、小さな温泉宿のロビーだった。
 階段を下りてきたルカに気づいたロザリーが、何か面白い話でもしていたのだろうか・・・・笑った表情をしながら首を向けて彼を見やった。

 

 「ははっ・・・・あ、ルカ君。もう温泉入るの?あたしもそろそろ入ろうかなーって思ってたところよ。王女様は?」

 「王女様は・・・・まだ部屋で雪を眺めてます。」

 「あーそうなの?あの子も飽きないわねぇ・・・・。・・・・まあそれ言ったら、上にいる人もよくわからないんだけど。」

 

 マルレインはしばらくは部屋から出てこないように思える。・・・・ちょうど真上でなにやら叫んでいたキスリングのことは、ロザリーはあまり気にしないことに決めているらしい。彼が立っていた廊下の縁を見上げると、彼はすでにいなくなっていた。がっくり肩を落として部屋へ戻っていった彼の姿が目に浮かぶ。あの調子では彼も、しばらくは部屋から出てこなさそうだ。怪人学者の謎のおふざけとそれに付随した結果にともなう謎の落ち込みは、ときたまに発生する一連の行事のようなものである。
  ロザリーが椅子から立ち上がり、ルカと入れ違いになるように階段の手すりに手をかけた。

 

 「じゃー、あたしちょっと王女様の入浴の準備を手伝ってくるから、ルカ君は先に入ってていいわよ。王女様もそろそろ入りたがっておられるかもしれないしね。」

 「は、はあ・・・・」

 「おや、おまんらも温泉に入るのかよ?」

 

 ルカの横から、麦藁帽をかぶった眼鏡の湯治客が口を挟んできた。しかも微妙に訛った口調で。
 黄金と翠緑の瞳が同時に、くるりと彼の方を向く。

 

 「温泉はいいぜー、なんたって汗と疲れと悩みがいっぺんに流されゆくかんな。わしも何度もつかってるんだけどよ、もう気持ち良くてやめられないんだこれがよ。あんちゃんもひとっ風呂、どうだい?気持ちいいぞー?」

 「あ・・・・ボクはこれから入るつもりです。」

 「あたしも入るわ。せっかく来たんだし、今日は疲れたもの。」

 

 そう言ったロザリーを見て、湯治客は突然、にやにやと笑い出した。
 ロザリーは頭上に疑問符を浮かべる。

 

 「?」

 「おお、おお、ねえちゃんもかい!いいねえ、若いおなごの入浴はお色気たっぷりでな!正に旅の風呂文化の定番ってもんよお。こーんなカワイイ子と一緒に入れるなんてな、こんな場所で温泉入り続けたかいがあったってもんだぜよ。いやはや、ラッキーだぜよ!」

 「は・・・・はああ!?」

 

 ロザリーが顔を真っ赤にして、嬉しいのか恥ずかしいのか怒っているのか分からない表情をした。
 この男の「〜ぜよ」という中途半端に訛った口調は、方言というよりもただの口癖のようだ。
 いや・・・・それより、旅の風呂文化ってなんなのだろう。しかも若い女が入浴するのは定番って・・・・普通、男でも女でも旅の間も風呂に入るのは当たり前ではないのか?いや、それよりも一緒に入るとはどういう意味だろう。普通、風呂は他人と一緒に入らないものだというのに。温泉というのはみんなそうなのだろうか。
 ルカが頭の中でぐるぐると思考をめぐらせている間に、目の前では湯治客が入浴の説明をしているようだった。

 

 「そうそう、ここの温泉では湯着を身に纏って湯につかるのが決まりだぜよ。ああ?普通は布を湯に入れないのがマナーだって?そんなんこんな辺境の地では通用しないぜよ。なんせ湯着は風呂に入るための服だからな。」

 「ちょ、ちょっと!言ってることがよくわからないんだけど?」

 「わからんかあ?ここの温泉は混浴だぜよ。」

 

 ぶっふ!とロザリーは吹き出した。ルカがぎょっとして一歩横に避ける。

 

 「こ、混浴ですって?なんでよ?」

 「当たり前だぜよ。ここの温泉は見てわかるように秘湯でな、露天風呂はひとつしかないぜよ。それに、こんな場所に人が来ることも滅多になくてな。わざわざキレイに整備せんとも、自然にあるままのお風呂のが一番趣があるだろ?だから混浴なんだ。」

 「まあ、そういうことです。」

 

 すっかり常連として知り尽くした湯治客の説明に、小太りの宿のオーナーが苦笑いをして頷いた。ルカの隣で、ロザリーが頭を抱えている。
 しかし湯治客の言う通り、確かに当たり前のことである。こんな雪原に、どんな理由を持って女性が訪れるというのか。だからわざわざ男湯と女湯を分ける必要もない、という考えだ。もし来るとしたら、かなりの物好きか温泉マニアぐらいだろう。
 元々会長魔王さえ、トンネルの先のこの雪原について知らなかったのだ。おそらく普通の旅人も辿り着けない、誰も知らない場所なのだろう。そんな場所にやってきてしまった自分たちは、もはや普通ではないのだろうか?・・・・しかし魔王と勇者と王女と学者が同行している時点で、もはや普通ではないのだが。
 ―――そういえば。

 

 「あの・・・・なんで、こんな場所に温泉宿を?こんなところ、誰も来ないんじゃないですか・・・・?そこの横断トンネルは今までずっと塞がれていたみたいだし・・・・」

 

 ルカは、宿のオーナーに訊ねた。
 ずっと気になっていたことである。

 

 「なんでって・・・・そんなこと、考えたこともなかったなあ。さて、どうしてでしょうかねえ?」

 「かねえ?って・・・・。」

 

 困ったように、オーナーはぽりぽりと頭を掻いた。

 

 「友好的なオバケのお客さんなら来ますよ、特にビッグブルはうちの常連ですしね。・・・・宿を営業している理由も、もう忘れてしまいました。トンネルが塞がっているかいないか・・・・なんて、関係ないんですよ。ここに宿を建てた理由なんて、どうでもいいことなんです。ほら事実、こうやって人間のお客さんもちゃんといらしてますし。ずっと昔からここには温泉が湧き出ていて、それをこの宿の名物として扱っている・・・・っていうことに、何か変なことでも?」

 

 ・・・・言われてみればそうだ。客がここに来るから、温泉が湧き出るから、ここで宿を営業している。その事実に、おかしいことなんて無いはずなのだ。
 トンネルの向こうの違う世界の住人が、この場所を「世界の外」と言っても。
 この場所の住人からすれば、トンネルの向こうの方が「世界の外」のように見えるのかもしれない。
 しかし・・・・そんな簡単なことなのだろうか?

 

 「・・・・・・・・・・・・。」

 「雪国というのも、住みにくいというわけではないんですよ。住めば都って言うでしょ?」

 

 住めば都。慣れてしまえば、この場所は住みやすいのだろう。
 しかし、どんなに慣れてしまっても、雪国は人間にとって生きるのに厳しい環境であるはず。食料の確保、他人との交流。それらを考えれば、まだトンネルの向こうの暖かい環境の方がよいのではないか。
 少し歩けば辿り着く暖かい楽園があるというのに、それを「温泉が湧き出るから」の一言で片付けられるのか?トンネルが塞がれていたから、その先に行きたくても行けなかったのか?
 ・・・・しかしこの温泉宿の周辺、まだ見ぬ雪原の先に人が住む村があるのならば、また話は別になる。ここに泊まっている湯治客もその村から来たのならば、話も繋がる。
 きっと、あるのだろう。だから食料にも困らないし、客にも生活費にも困らないのだ。

 その前に。
 ここは、世界に住むニセ魔王たちに物資や人員を提供する場所なのではないのか?
 ということはつまり、ニセ魔王たちよりも悪くて強い提供者がいる・・・・ということではないのか。ならば何故、すぐ傍にいるこの宿の人間を襲わないのだろう?
 しかし実際、ニセ魔王は居たけれど物資はどこにもなかったのだ。ロザリーの言う通り、これは元々・会長魔王の嘘か、ただの勘違いである可能性が高い。

 

 「ん、ルカ君。なんか気になることでもあった?」

 「・・・・あ、いや、なんでも・・・・。」

 

 ぼーっと考えていたが、ロザリーの声でふと我に返った。
 そうだ。宿のオーナーも言っていたじゃないか。この場所に温泉宿が建っていることに、その場所にものや人が在る、居ることに理由や意味など必要ない。それに、自分たちには関係無い。疲れを癒して温泉にも入ることができる温泉宿が、トンネルの傍にナイスタイミングで建っていた。自分たちはそれを利用するだけだ。
 それだけだ。

 

 

 「さーてっと。わしは温泉にまたひとっ風呂つかって来るぜよ。」

 

 湯治客の男が肩に手拭いをかけて、温泉の更衣室に続いている扉へと向かった。
 そしてふと振り返って、ロザリーに言った。

 

 「ねえちゃん、混浴っておなごはよく嫌うがな。イヤなことばかりじゃないぜよ。男女関係なくみんなで温泉を楽しめるし、湯につかりながら雪を見てダベるのも結構いいもんだぜよ。」

 「あーそう、はいはいわかったわよ・・・・。」

 「ねえちゃんの入浴シーン、期待してるぜ!」

 「 は や く 行 き な さ い ! ! 」

 

 ロザリーが拳を握りしめてぶるぶると震えだしたのを見て、男は笑顔で扉の奥へと消えた。
 ルカとロザリーも一度、2階へ上がって入浴の準備をしてこようと思い、階段を上がろうとする。ロザリーは拳を握ったまま。

 しかし突然、ルカの背後の影からスタンが現れた。

 

 「ククク、残念だったなあの男。この尻タレ女のタレ尻なぞ、期待したところでしょせん無意味なものだというのにな。クックック、興醒めした男の顔が目に浮かぶわ。」

 「なーんですってええっ!?」

 

 その瞬間、今まで握っていた拳で、ロザリーがスタンに思いっきりゲンコツを食らわせた。しかしスタンの体は透けてしまい、ルカの頭に鈍い音を立てて当たった。

 

 「フハハハハ!どうした、転婆暴悪尻タレ女!そんな空拳で殴ったところで、余に勝てると思っておるのか?それに余を殴ったところで、タレ尻という事実は変わらんぞ?」

 「タレ尻タレ尻言うなーっ!この変態破廉恥オヤジ魔王!ヘンなとこばっかり見て言ってると、脳みそまで老ける・・・・じゃなくて腐るわよ!?」

 

 こいつが影じゃなければ、この拳でダメージを与えられたのに・・・・と悔しがるロザリーを見て、勝ち誇ったようにスタンは笑った。そして罵倒大会が始まる。
 ゲンコツのせいで痛そうに涙しているルカの姿は、2人には見えていない。

 

 「尻が垂れたキサマこそ、もう体も年老いてヨボヨボなのではないか?クックック!余が年齢詐欺老婆タレ尻勇者を倒し、世界を征服するのもそう遠くはないな。」

 「そんな勇者どこにいるってのよ・・・・。あんたのほうが年齢的にどう考えても年上じゃない。あたしが老婆だっていうなら、あんただってじゅーぶん爺さんよ!」

 「ふん、余は魔王だからな。200年や300年生きていて何が悪い!そもそも余は大魔王ゴーマの生まれ変わりだからな。ゴーマだった頃の分を計算外とすれば、余の体はまだまだ若いのだぞ?」

 「ふーん、なるほどねー。ゴーマが脱皮した後の物体があんただから、古かったヨボヨボの部分は捨てられたわけね。なるほど、それは便利な体ねえ。」

 「そうだ、便利だろう・・・・・・・・っておいコラ!脱皮と言うな、生まれ変わりだっ!余はヘビかなんかか、えぇ!?」

 「ああ、だから頭の中もおこちゃまなのねー。あたしよりも精神年齢が低いのも当たり前よね。よかったでちゅねー、無事に脱皮できてー。」

 「だから脱皮じゃないと言っておろーがっ!なんだその気持ち悪い口調と視線は!」

 

 ロザリーとスタンが言い争っている中、ルカは「どうやってこの喧嘩を止めよう・・・・」と無表情で考えていた。
 周りを見渡すと、宿のオーナーや他の客が唖然として、動きを止めているのが見えた。自分たちに対し、少し引いているようだ。確かに、勇者がこの変な影と喧嘩している様は異様な光景かもしれない。
 さすがにこの場所で喧嘩されると他の人の迷惑になる。それに早く温泉にも入りたい。そう思い、ロザリーを引っ張って階段を上がることにした。

 

 「ちょ、ちょっとルカ君?何するのよ?」

 「こ、コラ子分!とま、とま、止まれ、まだこの女には余のすごさについて聞かせねばならんことがたっぷりあるのだぞ!?」

 

 とりあえず2人の言葉は無視して、2人をずるずると引き摺って部屋へ向かった。
 さっきロザリーに拳をもらったのに無視されていたので、その分の彼らに対するささやかな復讐である。













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