画家は今日も、その川岸で絵を描いている。
 いつの間にか大魔王の噂は、流行りが過ぎたように耳にしなくなった。
 大魔王がどこにいったのかは知らない。大勇者の行方も。
 ひとつ明らかなのは、結局この世界は「魔王」によって滅ぼされることはなかった、ということだ。

 

 

 

 川辺の風景もそろそろ描き飽きてきたある日、テネル村の方面から元気に駆けてきた娘と、彼女に引っ張られている様子で怯えた顔をしている男が通りかかった。川に架けられた橋の上を渡ろうとした途中で、川岸に佇み絵を描いている画家に目をつけ、娘は唐突にその駆け足にブレーキをかけた。急に足を止めた娘に男が全身をぶつけた。

 

「ねえねえねえっ!聞いた?聞いた?最新のウワサ、あなたは聞いたっ?」

 

橋の欄干に落ちそうなほどに身を乗り出して、娘は画家に声をかけた。いきなり声をかけられて驚いた画家は、あわてて筆を止める。

 

「な、何の話かな?」

「あー、その顔は聞いてないわね!うふふふ、いいわ。話してあげる。それはねえ・・・・」

「―――世界の果てのむこう側に、新しい世界が見つかったって言うんだ!」

 

自分より先に言うんじゃない、という蹴りを娘は男のスネに入れた。痛そう。

 

「せ、世界の果て?・・・・そんなものがあったのか?」

「そうなのよう、誰も知らなかったんだけど。今までその先には何もないって思ってたってゆーか、ってゆーかどーせそもそもそのむこう側になにがあるかなんてあんまり考えたことなかっただけだと思うんだけど、とにかくなんか果てがあったみたいで、その向こうに見たこともない場所があったって言うの!」

「具体的にはどこで?」

「リシェロの湖のむこうよ。渡し船の船頭さんが最近見つけて、実際に上陸したんですって。ずっとだーれも気がつかなかったのよ。すごい話よね。」

 

 その話を聞いて、画家は少しだけ目を見開く。以前、湖のむこうについての物語りを、誰かとした気がする。あのときは湖のむこうに知らない風景がある、見えない色があるという疑いを抱いたものの、結局自分で確かめることはしなかった。この川岸に留まったまま、自分の空想のひとつとして片づけたものだ。
 あの湖のむこう―――湖面に顔を出した水の遺跡のさらにむこう側に、本当に、なにかが見えたとでも言うのだろうか。

 

「そんな、どうして今さら・・・・?」

「さー、知らないわよ。まあでも、世界は広いものね。いつ世紀の大発見が起きてもおかしくないわよ。それが今ってこと!・・・・うふふふ、楽しみよねえ。どんなおもしろいウワサのタネが、新しい場所にはあるのかしら。」

「おおこわ、おおこわ。きっと魔王みたいに、恐ろしいやつがたくさんいるんだよ、そこには!ぶるるる。行かないほうがいいって、ぜったい!」

 

 ようやく「世界は広い」と認識できるようになった娘は、そのことにも気づかずにさも当然の如く胸を踏ん反りがえらせる。その横で男は堂々とした彼女とは正反対に、ぶるるるとペンギンのように身体を激しく震わせた。そんな情けない大の男に娘は今度は平手、というより拳を背中に入れた。・・・・良い音が聞こえた。

 

「いったああ!・・・・な、なにすんのさっきから!?」

「もー、ホントあんたって相変わらず恐がりね!男がそんなんでいいの?いーかげん、少しは恐がるのをやめたら?」

「ヒトがそんな簡単に変われるわけないだろ、おおこわ!きみがもーこわっ!ほんとこわ!だいたいきみだって、相変わらずウワサ好きだな。ふりまわされるこっちの身にもなってくれよ!」

「あら、あんた、そういえばルカ君ちに最近出てきた不気味で真っ黒な影がこわくて逃げ出したんだっけー?アレも、ただのウワサだったのにねー。あれもただのルカ君の影だったじゃないの。・・・・うふふ、見えないウワサにふりまわされるのはウワサのせいじゃないのよ、ついでにあたしのせいでもないわよ。ぜんぶ自分の弱さよ。わかる?」

「恐がりで悪かったな・・・・。けっ、どーせ恐がりがおれのアイデンティティーなんだよう。」

「横文字で開き直るんじゃないわよ。言いワケはみっともないわよ。」

 

ウワサ好きらしい娘に今度は口先で一蹴され、恐がりらしいおじさんは半泣きになった。

 

「・・・・だからって、なんでリシェロに行かなくちゃいけないのさ?なんでおれ、きみに腕ひっぱられてるのさ?おおこわ。おおこわ。行きたくないよう。ぶるる。」

「ふっ。見えないものへの恐れを克服するには、自分の目で見るのが一番よ。そしてウワサをさらなるウワサとして広げるために。協力しなさいよ、あんたの弱みをあることないこと言いふらされたくなかったら、黙ってこのあたしにふりまわされなさい。」

「この国全土に恐怖をばらまくつもりかあんた!あんた魔王か何かか!?おおこわ。あんたマジこわ。」

「魔王なんかウワサとなにが違うのよ。けっきょく似たよーなモンじゃない。」

 

 恐怖の大魔王だってウワサあってのものなのだ、とウワサ好きの娘は恐がりなおじさんを鼻で笑った。この娘はウワサというものの本質とその面白さをよく理解しているようであるらしい。人々のウワサが、・・・・認識が「魔王」をつくるということか。・・・・恐らくそれが見えるものでも、たとえ見えないものでも、関係なく。
 湖のむこうの、まだ不鮮明な風景。この世界を攻略した古代のエラい誰かも、見つけられなかった世界。そこは、広いのだろうか。人は住んでいるのか。オバケは、勇者は、魔王は?

 

「・・・・って。きみたち、リシェロに行くのか?」

「あったりまえでしょ!ウワサ好きとしての誇りを持つあたしが実際にウワサのタネを仕入れに行かなくてどうするのよ。これからさっそく見にいくのよ、見つかったっていう、新しい世界をね!ちょっと日帰りで行って帰ってくるわ、テネルのみんなにウワサしなくちゃなんないから。それにめんどーだけど、明日学校もあるし。」

「あー、だからそんなに軽装なのか。旅に出るつもりはないんだね。まあ、学校は大事だとは思うよ・・・・。・・・・そもそも「ウワサ」って、はっきり見えなくてよくわからないから、言い合うものなんじゃないのか?自分で見にいっちゃって、いいの?」

「だって、少しも動かずに口でばっかり言ってるだけじゃ、つまんないじゃない。それにウワサの中身が案外大したことない話だったら、がっかりしちゃうし。あの真っ黒な影の正体みたいにさ。だから「あー、ウワサしててよかったー!ホントよかったー!」って思えるような、いいウワサを探しに行くのよ。・・・・ウワサが本当かどうか、確かめにいくの。」

 

 ウワサに良し悪しがあるのかどうかはともかく。
 「ウワサ好きの娘」から「ウワサを確かめにいく娘」に変わった娘は、もう新しい世界へと目を向けている。「恐がりなおじさん」も、やはりまだ恐がりであることには変わりないようだが、それでも恐がりを少しでも克服する方向へ、足を向け始めている。それが本意でも不本意でも、彼らの世界は広がりを始めている。
 それもこれも、新しい世界が見つかったからなのだろうか。

 

「ねえ、あなたは行かないの?」

「・・・・・・・・そうだなあ。まあ、ぼちぼち考えるよ。」

「ぶるるるる、おおこわ。あーこわ!なにがこわいって、生きて帰れるかわからないじゃないか!あー、行きたくない。ぶるる。」

「それでも行くのよ!見にいかないとずーっといつまでもぶるってることになるわよ。だいじょーぶ安心して、あんたが死んでもあたしが骨拾って持ち帰ってあげるから!さあさあ、いきましょ!それじゃーね、画家さん!」

「え、ちょっ、それ嬉しくないっ!ぜんぜん嬉しくないからねー!?」

 

 仲良く言い合いながら、凸凹だが妙に気が合っているように見える2人は橋を渡って、森を駆けていってしまった。画家はひとり残される。
 再び静かになった川のほとりで、画家は暫し、目の前の見慣れた美しい風景を眺めた。そして美しくも変わらない風景を写し続ける自らのキャンバスを、じっと見つめた。

 「この世界」は美しい。奇妙な人に出会えて、驚異に満ち溢れたものが多く存在する。
 こんな非日常が日常の、不思議だが平穏な、美しい世界が魔王によって壊されなければ、ずっと変わらなければ、それでも良いと思った。
 ・・・・しかしそれで自分の世界は、広がっていくのだろうか。広がっていけるのだろうか。
 そういえば自分は、かつて学者に言われた言葉を―――見えない色、見えない風景を描き写し、映し出そうと思って、この場所を選んだのだ。それなのに自分が見ようとしていたものは、いったいなんだっただろう。見えない色を果たして自分は、この目で見ることができたのだろうか?
 結局自分は「放浪画家」という名前を―――分類を、自分で生かし活かすことができていないのではないか。分類表にまでそう書かれていたのに。それはもう得意げに。しかしはたして自分がそんなつもりになっているだけで、結局自分はこの場所から離れることができていない。「この世界」から。まるで肩書きだけの放浪者のよう。
 ・・・・自分が本当に旅をする者なら、居心地の良い場所を離れ寒風に晒されにいくのも、また旅であるはずなのだ。
 見慣れた世界の外へ。あたたかく馴染んだ枠組みの、その外へ。
 そこには見たこともないような風景が、見たこともない色がたくさん存在しているのかもしれない。自分の中で今、まだ「透明」としか言いようもない、名前の無い、不可視の色ををしているものが、実際に目の前に色づいて現れるのかもしれない。今まで目に入ることもなく、知ることもなかった、認識の外側のモノたち。それらはもしかしたら、この世界に満ちた驚異よりも驚いてしまうようなもので、見たこともないほど奇妙で、この世界の色と同じくらい美しいのかもしれない。



 にぎやかな彼らが通り過ぎたあと、画家はそれでも暫く川岸に留まっていた。そして新しい絵を描いた。新しくイーゼルに立てかけた真っ白なキャンバスに、今描き出され続けているのは、目の前の風景の写生ではない。
 そこに描き出されたのは、一介の画家の空想だった。
 それは彼自身も見たこともない風景。「新しい世界」という言葉から、次々と浮かび上がるとりとめもない物語のかけらを、想像への道しるべを、彼はただただキャンバスに描き留めた。
 好きに描いているうちにキャンバスがなんだかすごい色をしてきた。

 

「・・・・なんだこりゃあ?」

 

 絵を描きながら、自分が生み出す奇妙という言葉を越えてしまったような色と、驚異に満ち溢れすぎたような摩訶不思議な風景を見て、彼はついつい笑い出してしまった。
 これは旅人としての期待なのか、あるいはただの子どもの遊びなのだろうか・・・・。
 初めて踏み入れる森の木々の不可思議さ、未知の土地の踏みしめる土の感触。かいだことのない水のにおい。それでも変わらないと信じる空の色。空の下に建ち並ぶ、見たこともないかたちの建物の群。そのような土地で生きる見たこともない姿の生き物たち、どこであろうと変わらずに生き生きと葉を茂らせる植物たち。そして自分たちから見たら長らく透明だった人々の、浮かび上がる色鮮やかな姿。初めて出会うけれど、自分たちと同じようなことを考えて、挨拶をして、立ち話をして、共感をして、ときに互いに異なる不思議だけど興味深い意見を交わしながら、散り散りに去っていく楽しげな旅人たち。そんな日常の中の非日常の、自然だがいつだって新鮮な、新しい関係を彼は想像する。彼の中の内なる世界は、どんどん外側へと広がっていく。そう、見たことも話したこともない人々の存在を―――広がりを、彼はようやく実感する。
 もちろん彼が知っている世界は、これまでだって充分に広かった。一言も口をきいたこともない人間などいくらでもいるし、今まで生きていて一度も目にしたこともないほど奇妙で変わった人間も、まだまだ「この世界」にはたくさんいることには違いない。しかし、そんな世界が地続きでずっと遠くまで広がっている可能性を、彼はようやくキャンバスの上の幻想ではなく、ありのままの現実として受け入れることができた。
 キャンバスの枠の内から外へ、彼の世界は遠く、溢れ出していく。

 

「世界の果て」は、本当はどこにでもあった。

湖のむこう。

駅の裏の山のむこう側。

テネルの役所のさらに裏手。

鉄道の行き着く先。

破れた塀を越えたそのさらに先。

見慣れた世界の果ては、見知らぬ世界への入り口でもある。

野を越え雪を越え砂を越え塔を越え山を越え青空の下を越え、さらにむこう側の遥か先に―――色づいた風景はまだまだずっと広がっている。この世界はどこまでも果てなく続いている。そう、本当は「果て」などない。

いずれそのことに気がつくことになるのを、彼はまだ知らない。

 

そうして完成した想像の「世界」の風景画を眺めたとき、心躍る彼自身の胸の内がすっかり表れていて、やっぱり自分は単純だなあ・・・・と、画家はずっと笑い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、彼は村の長老からの許可を得て、テネル村でちょっとした露店を開いた。
 村人の通行の邪魔にならないような道端に借りてきた絨毯を敷き、その上に今まで描いてきた多くの作品をひとつひとつ並べて、売り物として展示した。小さな葉書サイズのらくがきのような水彩画から、力を入れて描いた大きなキャンバスサイズの油彩画まで、なにもかも全て並べてしまう。小さな絵には子どものおこづかいでも買えるような値段を、大きな絵には大人がちょっと奮発して買いたくなってしまうような程度の価格をつける。凝った絵が売れるとは必ずしも限らず、些細ならくがきでも誰かの目に留まれば必要としてもらえることもあるのだ。
 そうして数日にわたり、彼は村で絵を売って過ごした。画家として食べていくのは難しいご時世、値段のついた絵を買う人などあまり多くはない・・・・かと思いきや、案外この村では道すがら気軽に買っていく人が多い。旅商人があまり訪れにくい片田舎であるので、絵売りはここでは珍しいのだろう。商店が少なく目新しい品も仕入れられることもない村で、あまり使いどころのないお小遣いをここぞとばかりに使おうと、または記念にひとつといった調子で、道行く村人や子どもたちは絵を買ってくれる。また画家は価格の付け方にも気をつけているので、彼の絵は全体的に安価だった。決して欲は張らず、ここに置いてあるものが全て売れたらそれなりに充分な資金にはなるだろう、といった具合でつけている。

 今朝も大小さまざまな絵を並べた中央に座布団を置いて画家は座り込み、村の家並みや人々のどこか懐かしいような朝の風景を描きながら、お客が来るのを待っていた。
 こうして並べてみると、やはりウィルクの森の風景、とくに川辺の風景画が多くなってしまった。森の動物や植物、オバケなども多く描いたが、やはりあの川辺そのものが彼は好きだった。
 それはずっとあの場所に留まり続けて、あの場所で緩やかに、しかし目まぐるしく変わりゆく世界の流れを眺め続けたからだ。多くの魔王と勇者が世界中を騒がせていた、やかましくものんきで和やかな日々。そして今ではなぜかあまりはっきりとは思い出せないが・・・・たったひとりの大魔王と大勇者が爪と刃を交え、世界中の人々を不安に陥れていた、不穏で不吉で疑わしげな日々。そしていつの間にやら訪れた、どこにも魔王がいない平和で穏やかな日々。いつだって個性的な人々の調子は誰もが一切なにも変わってはいないが、それでも世界は回っている。そして最近新しい風が世界に吹き込んだことを、彼も人々も悟っている。
 各地を転々と放浪する中、そして訪れたあの川岸で奇妙な人々に出会い、とりとめもない言葉を交わし、別れたこと。それこそゆく川の流れのように、多くの者が道を流れていくのを彼は見た。ゆっくりのんびりと、ときには急いで駆け足で。ときに立ち止まり、画家に声をかけた者。彼はそんな人々の姿を、そっと絵の中に描き留めてきた。おかしな人も、腹が立つ人も、影が薄い人も、なんだかよくわからない人も。
 そんなこんなですっかり慣れ親しんでしまったあの場所が、旅人である自分にとっての終わりの場所であり、同時にスタート地点だという不思議な予感が、画家の胸になぜかあった。それは本当に、奇妙な予感なのだが。

 

 

「おや。君、なんとも意外なところで会うね。奇遇じゃないか。」

 

 絵を描いていた顔を上げると、店先にはいつかの白衣の学者が立って覗きこんでいた。彼の隣には、あの影の薄い少年もいる。
 彼らとはもはやすっかり顔見知りで、幾度も言葉を交わした仲だ。しかしこの2人と最後に会ったのはいつだっただろう。確か大魔王騒ぎが大分落ち着いた頃だった気がする。あのときはまたもや王女様を探していた。二度も失踪して探される王女とは、可愛らしい顔をしてなんともお転婆な子だと思ったものだ。あれももはやすっかり前のことだが、あのときの王女は、今は見つかったのだろうか。

 

「今日は絵を売っているんだね。生活費の足しかい?」

「ちょっと違うかな。まあ、よかったら見ていってくれよ。」

「お安いご用さ!・・・・うーん、しかしこのオバケちゃんシリーズ、いいなあ。私の懐具合によっては全部ほしいくらいだよ。うふふふ。」

 

 学者キスリングは、いつもの前歯をぞろりと覗かせた独特なにやにや笑いを浮かべて、指で顎を撫でながら、頬を危なげに染めて呼吸も荒く舐め回すように並んだ絵の品定めを始めた。いったい何の品定めをしているのか怪しく見えてしまう。
 少年の方も彼に付き合い、いつもの無表情で画家の絵を眺め始める。自分の作品をゆっくり見てもらえるのは、いつだって嬉しいものだ。そんな2人を眺めながら、画家は何気なく尋ねた。

 

「ところで、新しい世界が見つかったってウワサ、きみたちも聞いたかい?」

「もちろん知っているとも。やー驚きだねー、ホントに。人々の認識が広がるとはまさにこういうことだろうね!ずっと我々の目に映らなかった、見えなかったものが、ようやく見えるようになったんだ。これからきっと、もっと、いろいろなものが見えてくるようになるさ。・・・・楽しみだね。」

 

 キスリングは嬉しそうに瞳を細めて、絵から視線を離し、ズボンのポケットに手をつっこんで空を仰いだ。そんな空は雲ひとつない青空で、今日もいい陽気だ。世界が広がろうとどうなろうと、空の色は以前と何も変わらない。
 広い視野を持つ学者の彼に、今何が見えているのかはわからない。相変わらず一介の画家には見えないものが、彼には見えているのかもしれない。その言い方も、なんだか人が知っていること以上のなにかを知っているような口ぶりだった。しかし聞かないでおく。ただの気のせいだろうし、もし知っていたら知っていたで、彼の場合話が長くなりそうだ。
 しみじみと謎の感慨にふけっている学者はさておき、画家はその隣にいる少年にも声をかけた。

 

「ああ、そういえば。きみを待っていたんだよ。・・・・ずっと聞けてなかったことがあるんだ。きみ、名前は?」

「え?ボク、ですか?ええと・・・・ルカです。」

 

 ルカと名乗った少年の顔を、画家はようやく正面から見つめた。相変わらず地味な風貌ではあるものの、初めて言葉を交わしたときから随分と経ったせいか、以前に比べて少したくましくなったように見える。あのとき薄いと感じられた影も、いくらか濃くなったようだ。地に足がついていないかのような初々しい挙動はなくなり、その姿勢にはしっかりとした芯が通ったように見える。彼の緑の目を正面から見ると、その面差しに影が薄い彼なりの意志の強さを感じるようだった。・・・・以前は気がつかなかった。
 ルカを見た画家は、おもむろに露店に並べていた作品の中からひとつ、絵を手に取って彼に見せた。

 

「この絵の中の男の子、きみにそっくりだ。そうは思わないか?」

 

 以前いつの間にか自分ではない誰かによって人物を描き足されていた、あの不思議な風景画である。
 ルカはその絵を見た途端、なぜか激しく吹き出した。そしてなぜか顔を赤らめた。

 

「・・・・・・・・そ、そうですかねえ?」

「うん。実はこれはボクが描いたわけじゃないのだけど、よく似ているよ。かわいいだろ?ボク、気に入ってるんだ。」

「・・・・・・・・そ、そうですねえ・・・・。」

 

ルカは視線を逸らしながら同意した。笑いながらも頬がひきつっているのはなぜだろう。

 

「それでね、ルカ君。きみを描いてみたんだよ。」

「・・・・ボクを?」

「うん。なんだかよくわからないけど・・・・なんとなく、きみを描いてみたくなってしまってね。実際にモデルになってもらったわけじゃないから、あまり写実的とは言えないけど。でも、もしよかったら、これはきみにあげるよ。」

 

 そう言いながら画家は、もうひとつ絵を取り出してルカの手に渡した。ルカは驚いてその絵を見つめる。
 小さなキャンバスの上には、ルカの姿が描かれていた。鮮やかな緋色で髪の一本一本まで筆を入れられ、瞳は生き生きとした深草色に息づいている。普段の彼の地味な色調の普段着も、濃いのか薄いのかなんだかわからない肌色も、キャンバスの上では印象に残るほど明るく彩られ、その輪郭を縁取る影はこの少年に確かな存在感を与えている。ひかえめながら誇らしげに笑いかける姿は優しく、自分自身であるルカもその笑顔を見つめていて、心が満たされるような温もりを感じる。
 描かれたルカのすぐ後ろには、自信ありげな月色の目でコミカルに笑う黒い影がいた。

 

「おやおや、悪くない絵だね。モデルより1.5倍かわいらしい顔をしてるじゃないか!」

「・・・・・・・・。あのう、キスリングさん・・・・それ、わりと悲しいんですけど・・・・。なんか、いろんな意味で・・・・。」

「あー、いやいや、冗談冗談。モデル通りかっこいいとも。ね?・・・・ぐふふ、できたら私も描いてほしいなー、なんて。そこらへんからオバケちゃん連れてくるから、私のモデル通りの好印象なスマイルをオバケちゃんとツーショットで描いてくれるかな?」

「かまわないよ。お代として500スーケルかかるけどいいかな。」

「えー、残念だなあ。ルカ君がタダなのは、なにか理由があるのかい?それとも単なる気まぐれかね?」

「いや彼は・・・・。・・・・まあ、以前にもらってるものがあるからさ。すまないね。」

 

 画家は申し訳なさそうにキスリングに言うが、彼は気にした様子もなく、冗談を言ってみただけのようだった(半分は本気だったのだろうが)。手間の問題もあるにはあるが、旅の貧乏画家としてはなにより絵の具や紙にもお金がかかるので、できるなら商売にしたいところだった。
 しばらくルカは絵を見つめていたが、やがてふと首をかしげて彼に尋ねた。

 

「・・・・あのー、どうして、ボクを描いてくれたんですか?」

「うーん。とりあえずこうしておけば、いろんなことのつじつまが合う気がするんだよね。」

「はあ。つじつま、ですか。」

「うん。なんというか、自分の中で歯車をなんとか合わせたいっていう、きみからしたら多分すっごく勝手に見える欲なんだけど。・・・・とにかくボクは、きみを描いておきたかったんだ。紙の上で、目に見える形で、しっかりとね。ちょっとうろ覚えな部分もところどころあるけど、そこはごめんね。・・・・でも、気に入ってくれたかな?」

「・・・・・・・・。・・・・はい。すごく、うれしいです。ありがとうございます。」

 

 ルカがキャンバスの中の彼自身とそっくりな顔で、ひかえめながら頬を染め、本当に嬉しそうに瞳を細めて絵を見つめて口にした言葉に、画家は安心したように表情を緩めた。彼はようやく、ずっとやりかけだった仕事をひとつ終わらせた思いだった。この少年はおそらくテネル村の子どもだと推測していたので、この場所で店を開いて座っていればいずれ会えるだろうと思い、画家はずっと待っていたのだ。少年ルカが自分の前を通りかかるのを。

 

「だけど、どうして、スタンまで描いて・・・・」

「スタン?」

「え?あの・・・・知ってるんじゃないんですか?」

「ごめん、実はなにも知らないんだ。」

「?・・・・あのー、えっと、スタンっていうのは・・・・」

 

「なんだ。呼んだか?」

 

 どこかで聞き覚えのある名前を彼が口走ったと思ったら、急に第三者の声がした。そして唐突に、足元から伸びるルカの影が、ひょいっという音とともに起き上がった。異形を成して喋り出した影に、一瞬呆気にとられた画家は目をぱちくりと瞬かせた。その光景はあまりにも奇妙だった。彼の手品、あるいは腹話術・・・・といったものではないらしい。
 しかしこの低い声、名前、そしてそのどこかマヌケにも見える顔は、聞き覚えも見覚えももちろん描き覚えもある。これまでも何度か自分の視界のすみっこをさりげなく横切っていた存在が、ようやく今はっきりと目の前に現れたような気がした。なによりそのカゲは、そこの風景画のいつの間にか描き足されていた少年の背後にいる黒い生き物と、まったく同じ姿だったのである。そしてその少年とカゲという構図も、彼らの面影も、なにもかもがそのラクガキと同じだった。

 

「えーと、これがスタンです。魔王スタン。」

「・・・・おい子分。これとはなんだ、これとは。なぜ今こんななげやりに紹介されてるのだ、余は。」

「・・・・・・・・魔王?」

 

 魔王。魔王というと、前に世界をえらく騒がせていた存在である。人々のウワサの種、世界滅亡の恐怖の元凶。それが今日は、すぐ目の前にいる。もっともそれより前は、魔王など世界に何人もどこにでもいたわけで、おそらく彼もそういった魔王の一人なのだろうが。
 それにしても、スタンという名前が、なぜか妙にはっきりと聞き覚えがあった。しかし一体どこで耳にしたのかどうしても思い出せない。そういえば、ウワサの大魔王の名前が彼の名前と同じだったような気がしなくもない。しかしさすがに例の恐ろしい大魔王がこのような顔をしているはずはないだろう。それこそウワサ好きの娘が言う「がっかりするタイプのウワサ」になってしまう。・・・・・・・・目の前の彼には悪いが、ちいさな子どもが描いたラクガキのような顔をしたへんなのが魔王として仰々しいセリフを述べながらカッコイイ大勇者と大真面目に血で血を洗う死闘を繰り広げる光景は、あまりにも愉快すぎる。

 

「自称ですけど、イチオウ魔王ってことになってます。あはは。」

「だーかーらなんなのだ、自称とかイチオウとかあははとかっ!キサマ、自分の立場を忘れとるんか、ええ?この子分子分子分!」

「いてててて!ちょっ、頭ひっぱらないで頭!」

 

 あのラクガキから伝わってきたイメージそのままに、仲良くケンカするルカとスタンの姿を見て、画家は感慨深げに微笑んだ。一見奇妙な一人と一匹の姿は、見慣れた風景の中によく馴染んでいた。まるでこの「美しく、奇妙で、驚異に満ちた世界」そのものが表れているかのような2人だ。少年とふしぎなカゲの寄り添い合って言い合う楽しげな構図は、パズルのピースが隣同士、そして周りの風景ともぴったり嵌まりあったように親密で幸せなものに見える。やはりあのラクガキの2人は彼らだったに違いないと、画家は思う。絵の中の少年のそばにいるそのカゲが魔王だったとは到底予想もしていなかったことではあるが、魔王だろうとなんだろうと、彼は姿は見えずとも確かに少年の傍にいて、見える姿を持った友だちだったのだと知る。
 「大魔王」が愉快なものである場合は社会的な意味ではいろいろと問題だろうが、愉快な魔王がいること自体は、きっと悪くない。

 

「そっか。うん、やっぱりいたんだね。・・・・きみの後ろに。描いてよかったな。」

「はあ・・・・?」

「・・・・って、なんだ、この絵は?余と子分ではないか。ちっ、学校の同級生との記念シャシンよろしく並べおって。それにとんでもなくヘタクソだ。余はこんなにかわいくはないぞ。もっと恐ろしく描かんか。」

「・・・・・・・・見たまんまだと思うけどね。」

 

 ルカはぼそりと呟いた。自称魔王スタンの顔は、どう頑張って見ても恐ろしくはない。

 画家が彼が知らないはずのスタンのことをなぜか知っていたことに、ルカは疑問を覚えたようだったが、詳しく問いつめることはしなかった。画家自身も、説明しようにもし難かった。そもそもこのルカ少年の似顔絵は、彼との数度の邂逅といつの間にか描き足されていた風景画の中の少年の姿を頼りに半分イメージで描いたものであり、スタンらしき影の生き物にいたっては覚えのない誰かのラクガキをそっくりそのまま模したものなのだ。(だから恐ろしくないと言われてもそれは自分のせいではない、と画家は思った。)もちろんこの似顔絵を描いていたときは、絵の中の彼と目の前の彼が同じ人物であるかはわからなかったし、影の友だちだってその誰かによるとりとめもない空想で、実際のところは影の無い存在かもしれなかった。
 しかし絵の中の彼は、自分一人だけでいることを望んでいないように見えた。ラクガキの描き手は少年とカゲをあえてわざわざ揃えて描いたから、画家も同じように一緒に枠の中に描いた。もしカゲが本当にただの空想だったならば、よくわからないファンタジーを自らの背後に描かれたルカは首をかしげたに違いない。しかし、おそらくそんなことにはならないだろう、と画家は何故か確信していた。画家はいつかどこか自分の知らない瞬間に、自らに語りかける少年に会っていたような気がしていたからだ。たとえばサブリミナル効果のような記憶と記憶の間、記憶に残らないほんのわずかな刹那に。少年と魔王―――ルカとスタンのそろった姿を目にした時の、風景画のパズルに欠けた一部がちゃんとはまったかのような親しみやすさは、どこか、デジャ・ビュという言葉を思い出させた。

 しかし、こうしてようやく出会えた彼らとも、今日でお別れだ。
 目的のひとつだった画家としての「仕事」を果たしたと満足した画家は、なにげなく彼らに告げた。

 

「ボクは明日、旅立つんだ。」

「ほう。キミも、見つかったっていう新しい世界へ渡るつもりなのかな?」

「そういうことになるね。なににしろ、旅人としてはもうこのへんには長く居座りすぎたから。そろそろ別の場所に向かう頃合いだと思ってね。」

「それはさびしくなるね。呪われた絵のオバケを人の手で誕生させられるかどうかの実験に、君にも協力してもらおうかとも考えていたのだが。つまり物言わぬ絵画に命を宿すことができるかという試みに君の腕を借りられたら、私としても助かるんだけどなあ。やっぱり。」

「あー。そりゃあ手伝えなくて残念だ、ボクも。・・・・でも、そんなことは調べるまでもないだろう?」

 

 心をこめて描いた絵画には本当に命が宿ると考えている画家は、ちらりと自分がこれまで描いてきた物言わぬ命の数々を見やった。いつの間にか描き足されていた絵も見て、少しだけ微笑んで肩をすくめてみせた。オバケ実験の計画をもちかけたキスリングも、納得したのかしていないのかよくわからない意味深な笑顔で、断られたことに対し何かひとつくらい言いたいことを言いそうなものを、結局なにも言わなかった。
 一筆入魂。どのようなものにも魂は息づく。心をこめて生み出したもの、大切に大切に守ってきたもの、長い道をともに歩んできたもの・・・・心があると信じているならば、どんなものにも、どんなかたちでも。
 画家はさらに遠くを見た。

 

「しばらくはここに戻ることもないだろうな。「新しい世界」がどのような場所かは知らないけど、少なくともとても、とても広いんだってことはわかるから。・・・・まあ、戻るって言い方もおかしいかな・・・・放浪者のボクに、帰る家があるわけでもないから。ははは。」

「そういえば、君の故郷はどこなんだね。マドリル?リシェロ?それとも、もっと遠いのかね?」

「・・・・さあ、忘れてしまったな。しかしいずれ、思い出せるよ。・・・・きっと。」

 

自分の故郷を探しに行くのも、あるいは悪くないかもしれないな。・・・・画家はそう思った。

 

「きみたちは、行かないのかい?新しい世界へ。」

「もちろん私もいずれ向かうつもりだよ。今は少々仕事が忙しいから無理だけどね。しかし少し遅れようと、たとえ辿り着くまで何年かかろうと、新しい世界は逃げないだろ?だいたいずっと昔からそこにあったんだから。だから私は今の研究をあらかた終えてから、キチンと準備をしたうえで、行ってみるつもりさ。比較資料をたくさん持ってね。オバケノミコンとか。」

「へー、そうかい。ルカ君もそんなところ?」

「ボクはまだ、決めてませんねぇ・・・・。」

 

でもまあ、キスリングさんの言うとおり、別に急ぐことでもないし。ぽりぽりと頭を掻きながら曖昧に言葉を濁そうとしたルカの頭を、ぽこんと黒い手がグーで殴る。

 

「このいくじなしが!お前がこうしてぼーっと過ごしておる間に、またほいほい新しく現れているかもしれない魔王どもが世界征服を進めていたらどうする!いいかげんさっさと歩け、動け、行動しろ!」

「そんな勝手な・・・・なんでまたそーいうこと言うのさ。別に行きたければ、ひとりで行けばいいじゃん。充分強いんだし、足もあるし、ジェームスもいるでしょ。」

「クックック。主人に向かってそう反抗的なこと言っとると、あとでベッドの下で丸まって震えて泣くハメになるぞ。いいのか?お前は余にとって一番都合のよい存在なのだからな。そんなお得な人間を悪の魔王が利用、いや悪用してどこが悪い。」

「人間を利用しないと世界征服する気にならない悪の魔王ってどうなの?」

 

 ルカ少年は学者キスリングや魔王スタンに比べて、新しく見つかった世界に対する関心がやや薄いようだ。きっと彼にもいろいろ事情があるのだろう。今のところはまだここに留まりたい理由があるのかもしれない。学校や仕事があるからとか、家族の手伝いをしなくちゃいけないとか、好きな子がいるとか、この世界が好きだからとか。居場所があるならば、無理して出かける必要もないことだ。行きたければ行けばいいし、行きたくなかったら行かなければいいし、あるいは行きたくなるまで待てばいい。
 放浪者である画家には、居場所はどこにでもあり、どこにもなかった。
 ルカとスタンが言い合う横で、ひとり品定めに満足したらしいキスリングは、財布を片手にきらりと目を光らせて怪しく笑う。

 

「ふむ。購入のチャンスが失われるのであれば、今ここで君のオバケちゃん絵を買わない理由はないね!んー、そうだな。ではでは、これとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれとこれを私に売ってもらえるかな?ぜひ。」

「ありがとう。」

「・・・・・・・・って、結局全部じゃないですか、キスリングさん・・・・。」

「ぐふふ。研究資料自室のインテリア持ち歩き用ブロマイドと絵は多種多様に使い道があるからね!大好きなものの絵は、いくつあっても足りないよ。愛すべきものの数だけ、私の愛すべき世界も広がっていくのさ!」

「・・・・・・・・お財布に余裕はあるんですか?」

「大丈夫、こー見えて実は貯蓄はあるんだ!君たちと旅をしながら・・・・いやその前からずっと個人的に貯めてるのだよ。私のへそくりの全ては買い占めるオバケちゃんグッズのために!」

「その貯蓄をなぜニセ魔王退治の資金に使わせなかったのだこのクソどケチ学者が。あとでいくら貯まってるのか白状しろ。言わんと燃やすぞ。答えによっても燃やす。」

「しかたないじゃないか、通帳の名義はルカ君とは別であくまで私個人なんだから。そしてビッグで著名な大学者グッテン・キスリングのプライバシーに関わる個人的な金銭事情および金額にはあまり触れてほしくないなあー、いくら君が礼節を知る立派な魔王であるといえども。・・・・・・・・さてそれじゃー、我々もそろそろ行こうか、ルカ君?」

「あ、はい。」

 

 お金を受け取った画家から分厚い本のページのように重ねられたオバケ画を手渡されながらすっとぼけるように話を変えるキスリングに、スタンは手の中に火種を燃やしながら疑惑の眼差しを向けていた。
 その爆発したような白髪がさらにボンバーな黒髪になるかもしれない学者の命運に向けて心の中で合掌する画家に対し、それぞれ腕の中に絵を抱いたキスリングとルカは、笑って別れを述べる。

 

「遠くへ行ってしまう君に、いつも良い風が吹くことを祈っているよ。じゃーねー!またどこかで!」

「・・・・絵、ありがとうございました。大切にします。・・・・・・・・さよなら、気をつけて。」

「ああ。こちらこそありがとう。きみたちに出会えてよかったよ。そして、サヨナラ。・・・・またどこかで。」

 

 画家は、彼が見てきた記憶の一部、世界の片隅の記録のかけらを抱えて去っていく、2人の人物の背中を見送った。彼らの姿は旅立つ鳥のように、人々の雑踏の間に消えた。
 一陣の陽気な風が、彼らを見送る画家のそばを吹きぬけていく。先ほど学者が見上げていた空を風に吹かれて彼も仰ぐと、その色はやはり遠く透きとおっていた。いつも見ていた空。きっとこの空の青色は、果てしなく続いているのだろう。自分の知らない地平線の先のどこまでも、そして高く宇宙の先までも。

 自分には見えない風景、人が見知らぬ風景を知る彼らのように、自分もなれたらいい。画家はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 夕方。夜の帳が下りる前の穏やかな赤色の中で、画家は店じまいの支度をしていた。
 あちこちの民家の窓から、夜の明かりが漏れ晩ご飯の香りが漂ってきていた。人の往来も少なくなってきた・・・・かと思いきやまだそんなこともなく、夕暮れ時は夕暮れ時で、テネル村は家へと駆け合う子どもや仕事が終わり散歩する大人の姿でそれなりに賑わっている。画家はこの田舎の村の、平凡ながらあたたかい生活風景が好きだった。村のこのようなノスタルジックな色を写した絵も描いて売っていた。それは今は買われていった後だが。
 このためそろそろ店じまいの時間とはいっても、いまだに画家の露店の前では通りすがりの男が2人、飾ってある絵を見て議論している最中だ。それはここに置いてあるものでは最も新しい、画家が想像で描いた空想の「世界」の絵だった。残業をサボって抜け出してきたらしい男は、見つかった新しい世界はきっとこんな感じの世界かもしれなくて、空前絶後酒池肉林血沸き肉躍るようなスゴイところで、とんでもない冒険が待っている場所なんだろーなーとうっとりと夢を見るように言った。そこでヒマだから立ち寄ったという男は、じゃー行ってみりゃいーんじゃねえ、冒険した先でサボらないですむような仕事を見つけりゃいーんじゃん、と返した。サボり青年は表情を固めたまま何も返さなかった。・・・・しかしやがて彼も、キミこそ冒険して仕事見つけたほうがよくない?とぼそりと呟いた。今度はヒマそうな村人の表情が固まった。
 こざかしくないカラスたちが巣に帰る寂しい鳴き声が響く中、地味な漫才のような会話が繰り広げられていた。


 そんな中、ひとりの白いワンピースの少女が、露店を見てふと立ち止まった。哀愁漂う男たちの会話を邪魔しないように、彼女は彼らの隣で売られている絵を眺めた。
 やがて彼女は、ひとつの絵を見た。画家がそっと視線の先を辿ると、そこには結局誰にも買われていくことのなかったあの絵があった。精密に描かれた川辺の風景に対し、まるで手を抜いたかのような小さな少年のラクガキのアンバランスさ、あるいはなぜそこにいるのかわからないへんてこなカゲが少年の背後にいるという理解不能なシチュエーションがどうもよろしくなかったのか、人にとってはあまり金を払う価値を認められないものであるようだった。画家自身はその絵を気に入ってはいたが、売り物としての価値は残念ながら無いのかもしれない。
 その絵を少女はしばらく見つめていた。
 大人びた顔立ちはまったくつまらなげな様子で、その賢そうに見える青い瞳は何の感情も持たないでいるかのように動かなかった。しかし、やがて顔を上げて画家にたずねた。

 

「・・・・あの。これって、いくらなんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の朝、画家は買い出しをした。少し多めの食料と、いつもよりたくさんの紙と木炭と絵の具、そしてパンの耳。新しいキャンバスは買わない。大きなキャンバスはかさばる上に持ち運ぶには重すぎて不便なので、たいてい現地調達である。
 新しい場所に向かうとき、長い旅の前には持ち歩く荷物を少しでも減らさなければならないので、これまで描き上げた作品はできるだけ売ってしまう必要がある。これまでずっとテネル、マドリル、リシェロの3点の地域を拠点としていたこともあり、今のところの自宅とも言える部屋を使って作品の倉庫代わりにしてきたものだが、その部屋にももう帰れなくなる今、画家は部屋を引き渡すつもりだった。そのため、保管してある絵もできるだけ全て売ってしまおうと考えていた。テネルは今日でおしまい。今度はマドリルでしばらく絵売りをする予定だ。その後はリシェロで、船に乗る前の数日の間、店を開く。それでも売れなかったら処分するしかない。もったいないが、旅をして生きる放浪画家が増え続ける作品を物理的にずっと所持し続けるのは難しい。それらたくさんの風景の記憶は、自分の中に収めて出かけようと思う。
 もはやすっかり仮の我が家となっていた宿をチェックアウトする。荷物をまとめ、鞄とイーゼルを背負い、彼は主人に感謝を告げて扉を開けて宿を出た。
 村の門を開ける間際、長い間拠点としていたテネル村を、最後にふりかえった。その風景を確かに瞳の中に描き込んで、彼は村を出ていった。

 

 

 ウィルクの名がついた森の中の三方路をマドリル方面へと向かう。何度も通った道だ。迷うことはない。
 途中、川に架かった橋を渡った。そのとき、長い間その場所に留まり絵を描き続けたあの川辺を見やった。

 川のほとりで、野生のウシが2頭暴れていた。
 一頭は耳とツノとしっぽが生えた牛のようなウシの4本足の巨体で、相手を頭の大きなツノで突こうと駆け回り飛び跳ね突撃していた。もう一頭は耳とツノとしっぽが生えた牛男のようなウシの2本足の巨体で、筋肉質な腕を振り回し相手の体に殴りかかろうと駆け回り飛び跳ね突撃していた。互いに体をどつき、殴り、はね飛ばし、のしかかり、きらきらと輝く汗が爽やかな天気雨のようにほとばしっている。のどかなはずの川辺の風景の上に、闘技場の熱いリングの光景がなぜか重なって見えた。
 拳を止めた牛男のほうが、流れる汗と溢れる鼻血を拭い熱く笑いながら、相手のウシの健闘を称える。

 

「・・・・くーっ、おまえ、なかなか根性のあるウシだな!いいツノ、いい目をしてやがるじゃねーかぁ・・・・。こいつぁーひとつ、ウシVSウシの頂上決戦に、そろそろ決着をつけようぜブラザー。」

『ぐもー。ぐもー。』

 

・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・?????

 ・・・・よくはわからないが、これもまたオバケたちの人に知られぬ習性、文化、生活の一環なのかもしれない。彼らは一見熱く闘っているようでいて、仲良くじゃれ合っているようにも見えた。あのオバケ学者がいたら、このよくわからない状況も観察対象になったのかもしれない。
 やっぱりこの世界の住人はどこか奇妙でちょっと可笑しい。・・・・・・・・そう言ってしまうと、自分もまたその「この世界の住人」の範疇に含まれてしまうわけだが。

 

 

 またもや見たこともない不可解な世界が展開されていた川を後にして、放浪画家は歩を進める。
 木陰が涼しい森の中を、日の当たる野原の上をのんびりと歩き続ける。
 リシェロの船着き場を目指して歩く。
 もちろんその前にマドリルの町でも用事があるので、ワプワプ島を経由してそのままリシェロの近くまで飛んでいくわけにはいかない。しかし目指すべき目的地、新たな世界への入り口は、あの湖だ。

 道中、あのむかつく旅人と言葉を交わした。
 彼はいつも通りのむかつく調子で、湖のむこうに本当に行くのか、そんなデマを信じているのかと笑った。ついでにそのデマは自分が流したのだとも言った。新しい世界なんて、あるわけないじゃないか。そんな彼に対し、デマだろうとウソだろうとかまわないと、画家も笑った。画家が目指す目的は、見知った世界を離れて見知らぬ風景を見に行くこと、世界の果てがあるのかないのかを確かめることだった。単純な動機でいい。それでもボクは見に行くのだ、自分で確かめるのだ、と。
 むかつく旅人はスネたように「ちぇー。」と唇を尖らせた。そんな彼をその場に置いて、画家は別れを告げて立ち去った。

 道中、あの謎の女とも言葉を交わした。
 彼女は相も変わらずの悲劇の真っただ中のような口ぶりで、そう、あなたも行くのね、私の手の届かない硝煙に霞むその先へ、と切なげに言った。彼女も新しい世界に怯えていた。しかし、それもあるいは彼女の空想に過ぎない。ずっとこの平和な森の変わらない景色の中で、今のところまだ姿が見えない恋の相手とともにスリルとサスペンスに満ちたアダルティーな夜を楽しんでいる彼女だが、せっかくだから途中まで一緒に行かないか、と画家は誘ってみた。しかし彼女は―――暗い陰に隠れた表情は、ほんの少し、嬉しそうにしていたものの―――断った。過去に生きる哀しい性をもつ私の生きる場所は、ここしかないから、と。彼女は彼女で、この世界のどこかに居場所を探すようだ。
 自分の方はもはや見ることもなくあさってのほうをぼんやりと見つめ続ける彼女にも手を振り、画家は別れを告げて立ち去った。

 

 

 森の中を道なりに歩き続け、マドリルの町の前までようやく着いた。立ち止まり、門を開けてもらう。
 テネルの村人のウワサを聞いたところによると、マドリルの鉄道が再開したらしい。もうずいぶんと長い間使えなくなっていたような気がするが、いったいどういった事情があって運休していて、どういう風が吹いて解決したのやら。ともかく鉄道が使えるようになったので、わざわざリシェロまで行って船に頼らずとも、マドリルの駅で列車に乗って旅に出ることも今や可能なのだが、画家は意地でも船に乗って「湖のむこう」に行ってやろうと思った。
 湖のむこうに着いたら、まず何の絵を描こうかな。見たことのないものを描きたいな。そういえばいつのまにか自分はすっかり、人の似顔絵を描くのが好きになってしまった。あの嬉しそうな顔を見るのが、自分にとってもなんだかたまらなく嬉しいのだ。旅立った先でもまた、出会えた誰かの似顔絵を描いてみようか。
 人の姿を描くことは、その存在を確かなものにするということだ。それは人によってはたぶん、嬉しいことなのだろう。・・・・謎の女が自分の似顔絵を描いてもらうよう懇願した理由が、少しわかったような気がした。愛を求めつつ孤独を演じていた彼女は、本当は忘れられることを恐れていたのではないか?なんだかんだで結局、壮大なさびしがりやだったのかもしれない。

 

 

 

 ところで―――
 かつてこの世界のルールのひとつに、「分類色」があった。
 分類色には「赤」「青」「黄」の3色があった。その3色によって、世の中の人間はみな色分けされていた。分類表の行政システムは自分が知らない間に廃止されたらしいので、これから先はこの分類色に関しても用いられることはなくなっていくとは思うが。
 これらの色は全て、パレットに出すことができる。自分の手の中のこのパレットに。
 ならば、目に見えない色は・・・・「透明」は、パレットの色であらわすことはできるのだろうか。どの絵の具を使えばいいのだろう。
 その疑問に対する答えを画家はとうに知っている。「透明」を描き出すことは、できる。透きとおった水を、硝子を、水晶を、風を、光を、パレットの上の色を以てどう表現するかは、絵描きの腕の見せ所だ。

 実際のところ世界は、この3色だけにとどまらず、さまざまな色で彩られていることを画家は知っている。
 赤、青、黄・・・・・・・・緑、桃、橙、紫、茶、灰、白、黒・・・・そういった色の間にある色、あるいは外にある色、名前のない色。見えない色。ひとつの定義にとらわれない色。・・・・一見必要とされない、そこに彩られていることにも気づかれない色。どんな色にも染まって消えてしまいそうでいて、それでも何者にも染まることなく、一色として、一個として独立する色。そんな透明な色もまた、この世界という絵画の一部なのだ。その色は確かに見えずとも、知られずともそこにある。その色が自分に見えるかどうかは、自分が見ようとするかどうかだ。見えないものの輪郭を自分なりに工夫して表現することもまた同じ。

 画家はもう一度考える。結局自分は「絵」を描くことで、そういった色を見つけることができたのだろうか?
 見えなかったもの。見ようとしなかったもの。
 自分はこれまでそういったなにかに出会えただろうか。それともこれから出会いに行くのだろうか。

 まだまだこの地においても、自分が見ていないもの、自分に見えていないものはあるのだろう。出会えていない者もいるだろう。しかしそれらを見る役目は、この地に留まる人々に任せればいい。
 ボクはせめて自分の目に映せるだけのすべての色を、この目に焼き付けてからこの地を去ろう。この世界の存在を知らない誰かに、この世界の片隅で、誰も知らないままずっと変わらないで在り続けた、透明ながら色鮮やかなあらゆる風景を写し続けた記録を、いつか伝える日のために。そしていつの日かもう一度、懐かしい風景を辿ってこの世界に巡り合えるように。あらゆる世界の片隅の、ボクらには透明に見えていた存在たちを、何も知らなかった彼らに、見せることができるように。こんなへんてこな風景を見つけたよと、この土地で出会ったへんてこな人々に、きっと見せることができるように。

 この広く大きな世界のどこかに、ただひとり―――自分にしか見ることができない色も、もしかしたら、あるのではないだろうか?
 その色はきっと、それを見ることができる唯一の誰かの目を通して、他の誰かにもまた見えるように、その手で伝えられゆくものなのではないか。伝えるかたちは絵だったり、言葉だったり、知識だったり、歌だったり、はたまたただまっしろな指先だったりするのだろう。

ほら、よく見てくれよ。こんなにキレイな色が、ここに見えるだろう、と。

 

 

 ・・・・さよなら、美しく愛しい世界。しばらくはこの見慣れた森を訪れることもないだろう。
 しかしそれでかまわない。もとより自分は、広い世界を旅する「放浪画家」。土地から土地を移り歩く根無し草。
 だから旅を続けよう。誰もが世界をまたぐ旅人だというのなら、たとえ今日別れても、いつかどこかでまた会える。

 どこまでも自由に歩いていくことができる、透明な風に。
 あらゆる色を見つけることができる、まっしろなキャンバスそのものになりたいのだ。

 

 回り合うふたつの歯車の形をした町の門のむこう側は、名も知らぬ多くの人間が騒がしく行き交っている。描き続ける者はその風景の中へ足を踏み出す。
 彼の姿もまた旅立つ鳥のように、人々の雑踏の間に消えた。
 いつか重なり合うふたつの円。いずれ巡り合うふたつの縁。2枚の歯車が歯を合わせて廻る姿は、ふたつの色が触れた部分で混ざり合い、新しい色を生む様子に似ている。

 

 歯車はまた廻る。入り口は閉じられた。

 













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