ウィルクの森に一人の男が座っている。
彼は大きなキャンバスを立てて絵を描いている。森の中の少しだけひらけた明るい空間である。彼の視線の先には薄暗く深い木々の暗闇に白い木漏れ日が幾筋も差し込み、陽を反射した金色の蝶が舞い、森のいたるところから小鳥のさえずりが響いている。彼の座る広場周辺には、陰で育つ湿ったような植物が豊かに茂っている。そこには何もないが、彼はその場所を選んで座っている。
このあたりの森の茂みには、月夜に光を宿す白い花が咲くことがあるらしい。さすがに夜の暗がりの中では絵を描くことはできないし、夜は日中よりさらにオバケの活動が活発になるので、不用意にうろつくことはできない。そのため彼自身は一度も見たことはないが、そのような不思議な植物が生きている森なのだ、今自分が座っている場所にも神秘的な美しさがあるように感じられる。どのような姿形をした花なのかはわからないが、一度その花を自分も見てみたいものだ、と彼は思う。日中に見つけたとしても、ただの白い花と見分けがつかないとは思うのだが。
木々の合間を縫うようにしてオバケがときどき通り過ぎたり、留まったりする姿を見かける。その姿はフワフワの幽体のときもあれば、ウサギやゾウなどの生物らしい姿であることもある。タマネギやゴースト、古びた樹木に似た姿をとることもあるので、彼らは必ずしも森の動物と言うに相応しい姿とは限らない。いったいどちらが彼らの本来の姿なのかは男にはわからなかったが、どちらの姿でも彼らの姿にはどこか愛嬌があると男は思っている。そんなふしぎなオバケたちが自然の一部として生き生きと暮らしている環境が、このふしぎな世界の当たり前の風景で、この世界のふしぎなあり方そのものだった。彼らと遭遇することが危険であることももちろん承知しているが、自ら敵意を向けず追われるようなマネさえしなければ、彼らは悪さはしない。森に生息している生態系の内らしいオバケの姿は、男にとって興味深い描写対象のひとつである。
男は画家である。とくに風景を描くことを好み、町の中はもちろんのこと、オバケに襲われることを恐れて人が出歩こうとしない町の外も放浪し、気に入った風景を見つけてはその場所に幾日も居座り絵を描いている。時折剣を片手に必死にオバケと戦いながら歩く勇者や冒険者が、道の端でのんびりと座る自分に対し、不審者を見るような視線を投げかける。あるいは人を襲うオバケまでもが、自身に出会っても微動だにしない男に対し、やはり不審者を見るような視線を投げかける。それらにも気をとめることなく彼は至ってマイペースに絵を描き続けるのであった。
画家は風景を愛し、目に見えるあらゆるものを愛し、世界そのものを愛している。
絵を描くことは彼にとって、日記を書く行為に近いものである。毎日生活する中で、書き留めずにはいられないささやかな風景のきらめきを見つけると、木炭でも鉛筆でも絵具の筆でも、白いキャンバスに描いておきたくなる。それは世界の一部を切り取る行為である。四角の白い枠の中に、彼の見た世界がそのまま、あるいいはより鮮やかに抜き出される。落書きのような素描にしろ、丁寧に色をつけた油絵にしろ、風景を描く行為に価値があると彼は考えている。彼にとってそれはキャンバスという大きなレンズを通して、世界を見つめることそのものであるからだ。
森の絵に最後のひと筆を入れた後、絵具をそよ風で乾かしながら、彼は満足げに切り取った風景を眺めた。
描いた絵はときどき町に出て売りに出すこともあれば、記憶を保存することと同じに、旅の途中で借りた部屋に置いておくこともある。画家という職業において十分な生計を立てることはいつだって難しいが、本当に金欠のときはオバケと手合わせをして、悪さをした彼らが盗み持つお金を得て稼ぐこともできる。その点で護身術も役に立つ。しかし多くの時間を絵を描くことに費やしたい気持ちから、彼はできる限り必要のない戦闘は避けることにしている。簡単なことだ、オバケに対して不用意に背を向けて走らなければいい。
「そろそろ、別の場所を探すかな。」
森の中で、画家は気持ちよさそうに伸びをした。そのまま空を見上げる。この場にひらけた陽だまりの空間を生み出している円形の空は、青く透き通っている。清々しい晴天だ。今日も世界は美しい。
放浪画家である彼は、気の向くままに世界のあちこちを旅しており、あらゆる場所に腰を据えてきた。
テネル村、ウィルクの森、マドリル都市、ルーミル平原、リシェロの港。ただその場所全体の特徴だけ見て描くのみならず、その全体の地域のささやかな風景の一片一片を見つけては切り取っていく。村の宿屋の朝の落ち着いた食堂だったり、生物の息吹のような白煙を噴き出すパイプが立ち並ぶ都市の路地だったり、誰かが放置して忘れてしまった釣竿の糸が垂れた水際だったり。注意深く世界を見つめていけば、描き留めたいと思う風景はいくらでも見つけられる。その風景の一瞬に立ち出会うたび、世界のささやかな美しさと奇妙さに驚く。何かに驚くたびに、彼の世界は豊かな記憶に彩られていく。
ここ数日はテネル村に宿泊し、周辺のウィルクの森を根拠地としている。この地域一帯はオバケの性格も温厚なものが多く、襲われても簡単に追い払える程度に弱いため、彼がとくに好んで散策する場所である。
ある学者が書いた本によれば、オバケは生息する環境が厳しいところであるほど、気性が荒く能力も強くなるのだという。生存競争のために強くならざるをえないのだろう。荒涼としたルーミル平原に比べてウィルクの森は豊かな自然に溢れ、食料には困らない環境であるので、オバケたちもいたずら好きな程度の気性でおさまるのかもしれない。それに対して平原に棲むオバケたちは強い上に群れで襲ってくることもあり、一人のときに襲われると少々厄介なものが多い。
加えて最近は不穏な話を聞く。都市マドリルでは魔王が現れて、街の生活に関わる問題を起こしているらしいのだ。それどころか、地方各地で魔王が出現しているという噂が立っている。魔王とはオバケたち魔族の王であるとのことだが、まさか王が何人もいるわけはあるまい。王とは頂点に一人いて大勢の民をまとめあげるものではないのか?その点で胡散臭い話ではあるのだが、マドリルで困った問題が起きていることは事実なので、今はあまり近寄らないことにしている。
さて、どうしようか。
朝。真新しいキャンバスと大きなイーゼルを背負い、大量の画材といくらかの食べ物を詰め込んだ鞄を抱えながら、テネル村から出発した画家は、まず素描で練習を積みたいと思い適した風景を探していた。絵を描くことは彼にとって好きだと言えることだが、好きだからといって必ずしも自分が望んだとおりに描けるわけではない。剣や歌と同じに、表現の技術も日々練習を重ねなければ上達できない。
先日大きな一枚を完成させたが、完成させてから全体を見ると、未熟な点がいくつか見えてきた。風景を描くことは彼にとって記憶することに近い行為であり、職人のように巧拙について強くこだわる性格ではなかったが、できる限り風景を忠実に再現したいのはもちろんのこと、自分が目にしている本当の美しさを豊かに描き表すには、工夫が必要だ。そのためにもあらゆる対象を選り好みせず描き、目に見えるものの形を捉える練習は欠かせない。
森を横切っている小川に架かる橋を渡ろうとした。そのとき、川岸に不思議なものが横たわっているのが視界に入った。
「・・・・なんだあれ。」
皺だらけの汚れた白衣を着た人が丸太のように倒れている。いや、倒れているのではない。両足を地面に投げ出してうつ伏せに寝そべっている。浮浪者のようなぼさぼさの髪が目立つ頭は、川の方に視線を投げかけている。ここからではどのような顔立ちかは確認できないが、女性ではないことは確かである。
不審者には近寄るな、変質者にはついていくな。それは誰もが子供のころから注意されることではあるが、画家自身不審者の目で見られる身の上なので、森の中で寝そべっている謎の男を見たところで、驚きはすれど気味が悪いとは思わない。ただ驚きは、する。
人間ではあるらしいので、近寄ったところで牙をむいて襲いかかってくるとはないだろう。軽い好奇心から彼は橋を渡らず川岸に降り、白衣の男に近寄ってみた。
人が近寄る気配にも男は微動だにしない。彼自身が道端の石か植物の真似をしているかのように、あくまでじっと一点を見続けている。
「やあ。」
「少々黙っていてくれたまえ。」
画家の安易な挨拶を、男はぴしゃりと打つように小声で止めた。どうやら人の気配は察知していたようだ。ここで一体何をしているのか―――この問いかけを封じられた画家は、男が紙と鉛筆を手元に寄せて握りしめていることに気が付いた。
素描?・・・・ではないよな。
男はいたく真剣な様子で何かを睨んでいる。彼の見ているものが気になり、男と同じうつ伏せの姿勢を自分もとってみようと思いついた。
画家は荷物を下ろし、男の左側に並んで芝生の上に寝転び、視線を川の方角に向けてみる。男は画家が立ち去らないことを気には止めていない様子だった。
川を挟んだ向かい側の岸にタマネギが3つある。
もちろん野菜ではない。口もあれば牙もあるオバケである。3匹の人食いタマネギは、橋の陰の暗がりにむらがっていた。
よく見ると、そのうちの一匹のタマネギの頭のてっぺん、野菜のタマネギで言えば芽にあたる若葉色の突起に、桃色の可憐な花がひとつ咲いている。あれ、タマネギの花って白くなかったっけ。人を襲う人食いタマネギもネギ属多年草に分類される植物としての枠に属するのであればの話だが。ではあの桃色の花は人為的なものか。もちろんタマネギは人ではない。つまり、タマネギがタマネギ自身の意志であの位置に、花をつけた。おそらく装飾として。・・・・・・・・・タマネギが、装飾?
タマネギの特徴的な鳴き声が聞こえてくる。耳を澄ますと、個体各々の声色にも違いがあるように感じられる。高く細い鳴き声と、低く荒々しい唸り声。1匹の花つきタマネギに、2匹の普通のタマネギが寄り合っている。傍から観察するとそのように見える。
花つきタマネギは球根のひげ根に相当する部位を細い両腕のように曲げ、ぱっかりと開いた赤い口を隠すように押さえている。少し怯えているようにも見える。その花つきタマネギの前で、2匹のタマネギが牙をむいて威嚇し合っている。互いに興奮している様子だ。
えーと、この光景は、なんというか、何かに似ている。動くタマネギにオスとメスの区別があるとするならば、つまり。
「修羅場・・・っ!?い、いやでもこの構図では・・・・。」
「ふふふ、わかるようだね、きみ。私の鋭敏な観察眼を持って推定すると、あのピンクの花をつけたタマネギくんはオスだね。」
「え。そっちが?」
「蝶だろうと鳥だろうと、きれいな模様のあるほうがオスだろう?なんの矛盾もない。」
「そりゃ・・・・そうだけど。」
「一匹の男の子を巡って女の子同士が争っている。従ってれっきとしたハーレムであり、健全な意味での修羅場だよ。ただしこれは一般論に近い仮説だ。あるいは、違うようにもとれる。」
「それは?」
「第一、彼は実はフタマタをかけていた。そのピンクの花がトレードマークの青年は、一人の女を愛らしい笑顔によって誑かし、貢がせていたのさ。今回もデートの最中だった。陽の当たらぬ陰でいちゃついていたところを、もう一人の愛タマネギが目撃してしまった。彼には予想外だっただろうね、この橋が彼女の散歩道であったことを知っておくべきだった。そこから彼らの破滅が始まったのだ。」
「愛らしい顔で誑かし貢がせる青年ってなんだ。そもそもそんなドロドロな愛憎劇を、そんな、ただの、たかがオバケが・・・・?」
オバケには知能がない。あるとしても人を襲う生物でしかない。そもそもオバケは言葉を使わない。それは世間一般に知られているオバケへの印象である。もちろん魔族には高い知能を持ち言葉を話す者もいる。しかしそれはいわゆる上級魔族というやつで、容姿が人とは異なり強い魔力を持っていても、比較的人間に近い存在であったりする。ときには本当に人間と全く変わらない姿であることもあるらしい。このような魔族の場合、人と同じように町に住む者もいると聞くが、少なくとも森を彷徨い餌を捕って生きる下級魔族には、人間と同じような高度な精神を持っているようには見えないのが事実である。
男は冷静さの中に非難の色を見せて、はじめて画家の方をちらりと見やった。
「ふむ。たかがオバケが、と言ったね?しかしこの状況を君はどう見る?その様子では、君は恐らくオバケがこのような修羅場と思われる様子を繰り広げているのを見るのは初めてだろう。君が初めて見る光景が目の前にあるというのに、これまでの常識の枠を信じることができるとでも?」
「う。それは・・・・そのとおりだが。」
「まあいい、今は目の前の事象を分析しようじゃないか。第二の仮説だが、今彼はものすごくピンチだ。」
「それは見ていてわかるよ。つまり?」
「野獣となったメスに追いつめられる哀れなオス・・・・と言えばいいかな?・・・・うっふふふふふ。危険な香りがしないかい?」
男はにやにやとどこかいかがわしい笑みを浮かべた。ええー。・・・・・・・・しかし女に襲われる男という図式にいまいちいかがわしさを感じられず、画家は彼の言う危険な香りを理解することができなかった。それよりも現在自分たちがこっそり覗いている行為そのものに犯罪臭を感じられてしまい、怪しい仮説を立てておきながらためらいなく覗きを実行している変質者から、彼は少しだけ距離を離した(しかしあくまで観察対象はタマネギであるのだが)。
彼の洞察力というよりは想像力、もとい妄想力には脱帽できる。不審者を見るような目を投げかける画家にも男はどこ吹く風である。
「・・・・・・・・。彼にとっていろいろとよろしくない状況なら、あの2匹のメスを倒して彼を助けるべきでは?」
「これはあくまで仮説だからね。私はオバケちゃんの言葉をカンペキに理解するにはまだまだ未熟だから。もし彼らがごくふつうの少年少女でありこのケンカが切ない青春の一ページである場合、我々に彼らの美しい時間を邪魔する権利はない。ここで誤った判断により気を使った私が彼女らの頭上に天のいかずちでも落とせば、そこから悲劇の始まりだ。ふたつの亡骸を前に罪なき少年は泣き崩れ、大切な少女2人のうちどちらか一方を選べなかったことで起きた結末をひどく悔んでしまうだろう。ここは分別のある大人としてそっと見守ってあげようか。」
何その映画みたいなストーリー。少年と少女の立ち位置がせめて逆であれば。
仮説をさらに増やされもはや何が正しいのかわからなくなってきたが、もしオバケに人と同じ感情と知能がある場合、今ここで彼らの争いを覗いていることそのものを控えるべきではないか。しかし男はその様子に(変態さながらに)興奮しながら、観察しては手元の紙に素早く何かを書き留めている。楽しそうだ。しかし画家には彼の正体がわからない。
「世界には往々にして我々にとって見えにくい部分がある。」
タマネギの観察を続けながら、男はいきなり真面目に言いだす(今までも真面目だったのかもしれない)。
「オバケちゃんの感情も然り。オバケが修羅場を繰り広げるか否か、そしてその理由とは何か。そんなことに誰も価値を求めない。オバケの隠された生態を誰が知りたいと望むか?ふむふむ健全な一般論だね。生活の実用性のみを求めるならば、目に見える世界だけを問題にして生きても支障はないかもしれない。しかし目に見えるもののみ信じていては、物事に隠された真実にはたどり着けないだろう。君は無知の知という言葉は知っているかね?古代の有名な哲学者の言葉だよ。」
「はあ。」
「我々は自らの無知を知るべきだ。自らの目に映らぬところで繰り広げられている事象・裏事情・裏世界を追い求める必要性を認識しなければならない。学問の発達は日陰に対して疑問を抱くことから始まる。自ら見ようと思わなければ見えない風景、映ることのない色があるんだ。・・・・あー、わかりにくい?すまないね。えー。そうだな。もっと具体的に言うなら・・・・認識の枠・社会の常識から疎外されゆくものたちの非スペクトル色を感知する認知能力を養い我々の目に知覚されぬ不可視光線を自らの手で可視化する新たな方法論の創出と意識の改革が求められているということだね。そのためには、一見無価値に見える物事にもちゃんと目を向けスミズミまで舐め回すように観察する必要がある。特にこの現代の情報社会ではそれが大切だよ。例えばオバケちゃんが我々に伝えようとしている愛らしい声を聞きとる耳を持つということさ!それが今。」
彼が今ここで寝転んでオバケの観察をしている理由は理解できたようで全く理解できなかった。今ここでオバケの修羅場を隠れ眺めることと、現代の情報社会を知るということがどうつながっているのかわからない。
不意に、背後に気配を感じた。気がついた画家が振り返る。
桃色の巨体からはえた大きな紫と黄のシマシマのツノが、突進してこようとしている。
別のオバケ―――しまった不意打ちだ突進というよりは自分たちが今寝転んでいる状態であるため正確には我々の上に乗ってこようとしている(この間1秒)―――
瞬間、大型辞書のような分厚い書籍がそのツノめがけて飛んでいった。鈍器が当たったような音を立てて桃色の巨体の顔面に本のカドがめりこんだ。
石頭のサイがはね返るように倒れていく。これは痛い・・・・。
自分ではない。唖然として左を向くと、男は変わらず寝転びながら熱心にタマネギの観察を続けている。右手は鉛筆が動いたままである。しかし左手だけが軽く上がっている。
「あ、あなたか。」
「悪いが今忙しいのでね。」
この人、後ろ向きに本を当てたのか。どこまでオバケの気配を熟知しているのか。
オバケを観察対象として関心は持ちつつも、自らに敵意を剥く相手(もしくは観察を邪魔する相手)に対しては容赦はしないらしい。白衣を着た浮浪者姿でありながらも戦闘能力はかなり高いと見た。石頭のサイが痛々しげな鳴き声で泣きながら逃げていったところを見計らって、落ちたまま放置されている本に手を伸ばし拾い上げてみる。・・・・「オバケはやわかり」というタイトルだった。
「あなたはオバケに関する研究でもしている人なのかい?」
「私の自己紹介はもうしばし待ってもらえるかな。名刺もあげるから。今オバケちゃんたちが別れを切り出しそうなところなんだ。」
仕方なく、画家はもう暫し待つことにした。このままこの場を立ち去っても構わないのだが、絵を描く場所を決めるのに急ぐ必要はない。彼は時間に追われず物事への強いこだわりもない性格だった。
彼は自分の鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出し、オバケのデッサンを始めた。隣の男の先ほどの言葉を要約して解釈すると、学問の真実を知るために人が目を向けないものにも目を向けるといったような意味だった気がする。このオバケの修羅場らしき風景も見ようとしなければ見えなかった、それは確かに自分にとってもそうであったかもしれない。見ようと思わなければ見えない風景がある、という言葉には心惹かれるものがあった。自分にとって重要な意味を持つかかどうかはさておき、自分の記憶の一部として、そのことを描き留めておきたくなった。このやや不道徳的にも見える光景を真面目にスケッチしてよいものかは怪しいけれど。
ラフにさらさらと描いていく。その間に川の反対側の岸のタマネギとタマネギの間の空気がやたら重くなっている。
しばらくして突然―――花のついていない2匹のタマネギの身体に白く太いトゲのようなものが、それぞれ1本ずつ生えた。
「あ。」
「え。」
男2人は同時に驚き呆れた声を上げた。
2匹は一度強く震えて硬直した。トゲはタマネギの全身を占めている大きな顔面をこめかみから貫通しているようだ。花のついたタマネギのみが、平然とした様子で2匹に接したまま浮いている。
あの白いトゲはなんだろう。
白いトゲが引き抜かれると、2匹のタマネギは無言のまま地面に落ちて転がった。花のついたタマネギに、もはや先ほどまでの怯えた様子の大人しい面影はない。白いトゲは彼の、野菜のタマネギで言えばひげ根にあたる部分の両腕だったのだ。
2匹分の亡骸を前に、彼は満足げに微笑んでいる。ように見える。もとより口が裂け過ぎてよくわからないけど。
「なっ・・・・!さ、刺したのか・・・・あの男!?」
「うむ・・・・まさか恋愛のもつれによる殺人、いや殺タマネギに発展するとは私も思わなかった。これでは男が騒がしい女を2人フったというレベルではなくなってしまったね。あの2人は気の毒だった、恋をした相手がまさか世間の噂に名高い乙女の生き血をすするのが趣味の殺人鬼であったとは。彼女ら娘たちは彼の愛の裏にある吸血鬼的精神的快楽のために捧げられた哀れなイケニエに過ぎなかったのだ。」
「話が重すぎる・・・・理解が追いつかない・・・・」
「しかし彼にも誤算があった。・・・・ふふふ。第三者である我々が、事件現場の一部始終を目撃していたということさ!」
男は勢いづいて立ち上がった。川の向こうの人食いタマネギ(もはや共食いタマネギだが)もこちらに気が付いたようだ。彼も臨戦体勢となり、こちらに向かって険しい表情・・・・は目のない顔からは読めないが、険しい唸り声をあげる。何このサスペンス劇場。
観察はもはや済んだことになったのか、男は素早く鞄のそばの分厚い魔術書を手に取ってぱっと開いた。どうやら本で物理的に攻撃するだけではなく魔法も使えるらしい。
「はーいごめんねー。ちょっと失礼しますよー。―――イエロ。」
たとえオバケでも許されざる罪は裁かれなければならないと言わんばかりに、川を飛び越え牙を剥いて襲いかかってくる人食いタマネギに、涼しい顔をした男は雷撃を狙い撃った。激しい雷鳴と一瞬の青い光のあと、タマネギの丸焼きが水の流れの中に落ちた。桃色だった花だけが水面にちょんと浮いて、流れていった。
向かいの岸の2匹分の亡骸も、今は煙となり消えてしまっている。辺り一帯に風が通るような静けさが訪れた。
「・・・・『そして誰もいなくなった』・・・・」
バッドエンドな展開に画家が無感動に呟くのを余所に、男は魔術書と「オバケはやわかり」と観察しながら文字を書き留めた書類などを、早々と片づけ始める。
「しかし、実に興味深かったね!人を襲うだけだと思われていたオバケが、時として同類である仲間を襲うこともあることがわかった。オバケは確かに我々が想像する以上の意志と知能と広い可能性を持っている!まあ、よくよく考えると当たり前のことかもしれないがね。とにかく人間とオバケの脳の構造の比較研究および感情・感性ひいては文化および社会性に関する論文の完成を急がねばならない。しかし私として困るのは、私はこれまでオバケの修羅場を見てもヒトの修羅場は見たことがないところなんだよねー。これでは比較しようがない。口をきかぬオバケの心理を理解するにはヒトの言葉を借りなくてはならないのに。私がカノジョをフタマタかけてつくればいい話だが、あいにく私にふさわしい女子が周りに2人といない。誰か私の前で見せてくれないかなあ。」
「そもそもカノジョを作れる歳なのかあんた。」
「長いこと妻もいなくてね、婚期逃しちゃった気はしてるんだけど。・・・・ところで君のオバケの絵、よくできてるじゃないか。私は分析に必死で、スケッチはしていないんだ。うふふふふ、この絵を私にくれる気ない?」
男は画家のスケッチブックを取り上げて奪う気満々の笑みで言った。初対面にしてなんという図々しさ・・・・。しかしラクガキ気分で描いたこの絵に、人の申し出を断るほどのこだわりがあるわけでもない。
「いいよ。あげるよ。」
「いやー嬉しいね!このスケッチ画は必ず私の研究に役に立てるよ!お礼と言ってはなんだが名刺をあげよう。」
「さっきもくれると言ってたじゃないか。」
「世紀の大学者グッテン・キスリング45歳の千載一遇の貴重でおいしい名刺だよ。これさえあればどのような研究機関にも入れるよ。文字通り入れるだけだけど。大事にしてねーははは!」
たぶん世話になることはない。
しかしこのヨレヨレ白衣のボサボサ頭のひげ面男が大学者とはうさんくさい。しかし名刺を見ると、確かに名前とともに所属している研究所名が書かれている。裏を返すと、オバケ学者としての経歴(細かすぎて読みづらい)と趣味(足の爪切りって趣味と言えるのか)と性格(「好印象」。意味がわからない)と普段の持ち物(「ポエム帳」)といった名刺にここまで書くものなのかわからない記載が左半分を占め、右半分は何故かコメント欄。“To Gutten Kisling☆”とある。何か書いて返せとでも言うのか。
「君は絵描きだろう?」
「ああ、そんなところだよ。」
「学者と絵描き。一見交わることのない存在だが、お互い世界の姿をつぶさに見つめる職業だ。良いものじゃないか。我々は世界の内包された真実を探り、君たちは世界の消え入りがちな事象に目を凝らす。見えないものを見ようとする点では、我々は同志だね。」
「見えないものを?」
絵を描くこととは、見えるものを見ることではないのか。少なくとも自分は目の前の見えるものを描いている。風景、人物、物体・・・・ときには想像のものを描くこともあるが。しかし現実にしろ仮想にしろ、どれも自分の目に映ったものと言えるだろう。
キスリングは楽しげに笑った。
「自らの認識の外の物事なんて、一生懸命見なければ見えないものさ。そこにどのような輪郭があるか、それがどういった色をしているのか、目の前に何があるのか、誰がいるのか。人は常にそれらの全てを確実に認識しているわけではないし、し続けるのも難しいことだ。そうだろう?
だからつまりまー私としては本来よく見えないものを意識的に見ようとするから絵というものが生まれるんだと思うんだよね、そりゃーもちろん表現の意図は楽しいからとか上手になりたいかとか物事の本質を探りたいだとかあるいは幻想の視覚的具現化のためだとか人によりけりだろうけど、自己内外問わず現れうるイメージを認識しこと細かく描写するにはそれらを認知するある一定の認識の枠組みが必要であり、しかしそもそも思考の枠組みとはその定義を通すことによって目の前のものを見るためにあるわけだがその枠組みにとらわれることでかえって見えなくなるものもあるわけで、自らの枠組みの中で構築された固定概念これが当然だと言い切る自明性によってその裏にある事実や本質は隠蔽されるわけだ現象学的に。したがってそういった自己他者問わず認識の枠から外れ見えなくなったもの疎外されゆくものを敢えて見つめて純真無垢なままに白きキャンバスにまごうことなき真実の世界を写し出すのが絵描きであり敢えて見つめてこれはなんだろうと疑問を抱くことから自明性を覆し得る真のパラダイムを模索しまごうことなき真実の世界を探求するのが学者。
・・・・・・・・・・・・なーんて考えると、ステキじゃないかね?おっとこれはいいセリフだ、忘れずにメモメモ。」
自信ありげな顔で外国語に近い言語を弾丸としてこめたサブマシンガン(古代の道具の一種)で相手を撃ち殺すかようにまくしたてたかと思うと、ポエム帳を広げて今の自分の言葉を書きつけている。画家は本気でその場を立ち去りたくなった。
「ふふふ。君にはどれだけのものは見えているのかな?たくさんあるといいね。」
「・・・・・・・・・・・・そ、そうだね。」
「じゃっ、私はもう行くよ。ここでのポイントの観察はもう済んだから。二元論を越える二元論の確立はまだまだはるか遠い。さあ行こう、さらなる出会いを求めて!君にも良い出会いがあるといいね!じゃーねー!」
自分が立ち去りたいと思った瞬間に、彼のほうが自分の荷物を両脇に抱えてさっさと立ち去ってしまった。画家はその手際の良い動きについていけず、唖然としたままその後ろ姿を見送ってしまった。
一体なんだったのだろう・・・・。ずいぶんと飄々とした、まるで気まぐれな風のような男だった。のんきなそよ風だったかと思えばいきなりわけのわからない突風とか竜巻を起こすような類の。不思議な人間が世の中にはいるものだ。
そして彼が語る話も、結局よくわからない内容だったものの、その端々から伝わる意図はどこか頭のスミにひっかかるものだった。
・・・・見えないものを見る、か。
画家は、先ほどまでタマネギが修羅場を繰り広げていた川辺を眺めた。ひとつの嵐が去り、川は普段ののどかさを取り戻している。先ほどまでオバケたちによる謎の愛憎劇と、一瞬で始まり終了したバトルが繰り広げられたことなど、まったくどうってことのない些細なひとコマだったかのように、そ知らぬ顔をして川の水はのんきに軽やかな音を立てて流れている。
この場所であの学者らしき彼は、「見えないもの」を見ようとしていたというわけだ。普段は気にかけないもの、どうでもよいもの、疑問を抱かなければ通り過ぎてしまうような出来事・・・・意識しなければ見えない、主張することなく消えゆく風景。
画家はこれまで背負っていたイーゼルを、その場所に置いた。
ここに腰を据えようと思ったのは、他の人間は違う視点・視野を持つあの学者が見ていたような「見えないもの」―――世界の端々にもしかしたら隠れて存在しているのかもしれない、この世界の奇妙な一面、驚くような色が、あるいは自分にも見えるかもしれないと思ったからだった。見えない風景のおかしな一場面を見つけたこの場所で。
自分は普段、自分が見えるものしか見ていない。それでも、その風景もまた、自分以外の他の誰かの目に見えているかはわからない。たとえば冒険の道を急ぐ勇者さんには、道端で風に揺れているきれいな花が実はよく見るとたくさん咲いていることとか、池の水の透き通った底に小さな魚や蛙が泳いでいることとか、そういったとりとめもなくも美しい風景が、ときに見えていないかもしれないと思う。その蛙がよく見れば見たこともないような虹色をしていても、人によってはその色に気づかないのかもしれない。
おそらく自分にも見えていないものはあるだろう。もちろんそれは、自分ではわからないことだ。先ほどの学者の目に映っていたものは、彼に言われてその輪郭を見ようとしなかったなら、おそらく自分の目にはなにも映らなかっただろうから。
自分にはこんなにはっきり見えていても、他の人には見えているかはわからない―――これは確かに正しいことだ。認識とは、そういうものだから。自分にとって必要なものしか、自分の目は拾わないのかもしれない。
しかし画家は思った。自分もまた、自分の目に映りにくい様々な風景を、できるならできるだけ多く、見てみたい。
あらゆる風景に気をつけている自分が、それでも見過ごしてしまう何かを。
太陽がのんびりと頂点を目指してのぼっている最中の午前、白くあたたかな陽の光が降り注ぐ川辺は、涼しい風が吹いている。瑞々しい葉をつけた森の木はそよそよと静かな音を立てて揺れ、川のほとりを包むように生えた明るい新芽色の芝は、その色合いが目に優しく、気持ちが穏やかになる。健康的な土のにおいがする地面は、靴の裏の踏んだ感触が柔らかくもしなやかで、陽射しをたっぷり吸いこんで温かい。このままここで寝転んでも、気持ちが良いかもしれない。
荷物を背中から降ろし、一通りの画材を並べて仕事に取りかかる準備を終えた画家は、筆を洗うための水を川からバケツに汲んだ。その際画家は川を覗きこんでみた。透き通った水は太陽を反射してきらめいている。透明な流れを通して、小石や泥が沈んだ川の底がよく見える。川底の生き物の寝床となっているらしい漂う水草の間で、水の中で暮らす昆虫がもぞもぞと、眠そうに動いている。小さな魚は泳いでいそうでいないが、川の中で豊かな小世界がゆっくりと営まれていることがわかる。画家がそっと川面に手を入れてみると、ころころと手のひらを撫でる冷たくて澄んだ感触がした。
画家は顔を上げる。川の周りで無造作に短い背丈を伸ばす野草の群れは、水音にあわせてのどかに揺れている。その中で咲いた素朴な花々は小さくも彩り鮮やかで、緑の上にきれいな絵の具の雫を落としたように見える。まるでオバケの色を思い出す。この川岸の風景のどこかに、月の光を灯す小さな花もこっそり隠れて咲いているかもしれない。
もしもこの森を音で例えるなら、思わずステップを踏みたくなるような、元気で明るく楽しい音楽がよく似合う。
あらゆる森の音色が、この川岸には穏やかに、そして楽しげに満ちている。
画家は息を深く吸い込んだ。・・・・ここは良い場所だ。
とりあえずまずは、デッサンから始めよう。そう思い、イーゼルに真っ白なキャンバスを立てかけた画家は、川辺の風景を木炭で写し始めた。
しかし素描を初めてしばらくした後、線を消すために持ち歩いているパンの耳が、袋の中に少ししか入っていないことに気がついた。それらももはや使いすぎて、黒ずんでしまっている。これを使うのは無理だろう。
出かける前に、パン屋でもらってくればよかったな・・・・。しかしせっかくデッサンを始めたのに、今から村まで戻るのも大変だ。距離があるし、オバケにおそわれないとも限らない。
しかたなく、描いた線は指でこすって消すことにした。
・・・・。あーしまった、やっぱりパンの耳がほしい。
・・・・・・・・・・・・ん?
「うわっ!」
「ええっ!?」
ふと気づいたとき、隣に人がいた。画家が驚いて声を上げた瞬間、彼の方も驚いて声を上げた。
いつの間に、一体いつからそこにいたのだろう。近づいてきた気配が一切無かったのでまったくわからなかった。どうやら彼は、キャンバスの絵を横からずっと覗きこんでいたらしい。
「ご、ごめんね。ぜんぜん気がつかなかった。集中していたものだから・・・・」
「い、いえ。ボクのほうこそ・・・・」
そこにいたのはやや地味な風貌をした、大人しそうな男の子だった。小さな旅行鞄を背に、旅人と呼ぶには初々しい軽装で、一体何に使おうというのか、葉っぱのついた木の枝を手にしている。
画家は自分が彼の存在に気づけなかったことに少しだけ首をかしげた。この男の子にしても、彼はどこか存在感というものを持っていないように感じられる。面差しにこれといった特徴がないのか、感情が希薄なのか、よくわからない。不思議にも、彼がこんなに自分の近くまできていたのに、自分にはその姿がまったく見えていなかったのだ。まるで枠の外からひょっこり現れたかのように感じた。これまで見ようとしていなかったものに、ふとなんとなく意識を向けたときのように。
しかしまあきっと、自分が絵を描くのに集中していたせいなのだろう。絵を描いていると、こういうこともよくある。
「きみ、もしかしてテネル村の子かい?こんなところで何をしてるの?」
「いえ、その・・・・ちょっととりあえず、マドリルのほうまで行こうと思って。」
「そうか、遠出なんだね。オバケには気をつけるんだよ。」
彼もそれほど深い理由があって立ち止まったわけではないらしく、ただ気になったから立ち寄ってみただけのようで、それ以上会話を進展させなかった。無言でうなずき、ちょっとした挨拶のように絵を眺めて言った。
「絵、きれいですね。」
「やあ、ありがとう。でも、いや・・・・うーん、この川辺の風景はなかなかデッサンがむずかしい。どうも、うまく描けないなあ。」
こういう消すものがないときに限って、描くのに苦戦するのである。その上その光景を誰かに見られていると思うと、とても恥ずかしい。いや、自分の絵を見てもらうことがイヤだというわけでは決してないのだが。
そしてそんな落ち着かない気分であわてて指で消すとこうなる。
「・・・・あ、しまった!指で消そうとしたら、キャンバスが真っ黒になってしまった。あー、木炭デッサンの線を消すのにはパンの耳がいちばんいいのだが、持ってないしなあ・・・・・・・・」
そのとき、何か思い当たる節があったのか、少年はごそごそと鞄を漁りだした。チラと彼の手元を見ると、そこには都合よくパンの耳が入った袋があった。
「・・・・お、パンの耳だね。くれるのかい?」
「え?・・・・・・・・・・・・・えーと。・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・ええと、なにも、パンの耳のことでそんなに考えこまなくても・・・・。ま、お腹がすいてるならむりにくれとは言わないが。」
画家は彼の謎の無言から、パンの耳への謎のこだわりを感じ取り冷や汗をかいた。
彼が一体何に対して逡巡しているのか知れなかったが、やがて「もういいや」と小さな迷いが吹っ切れた様子で、パンの耳を差し出す。
「・・・・いいですよ。あげます。」
「本当かい?いや、助かるよ。」
「いやー、その、まあ・・・・」
「・・・・・・・・ちっ。パンの耳は揚げて砂糖をまぶしたらウマいって余が教えてやったというのに・・・・」
「ん?なんか言った?」
「いえ。一切何も。」
・・・・一瞬誰のものとも知れぬ低い声が聞こえた気がしたが、まあ気のせいだろう。
せっかくタイミングよくパンの耳をくれたのだから(その上謎のこだわりをふっ切ってもらってまで)、せめてなにかお礼くらい渡そう。そう思った画家は自分の身のまわりを見回し、筆箱の中に確かもうほとんど使っていない絵筆が数本あったことを思い出した。そのうちの一本を、少年に渡す。
「そうだな、お礼といってはなんだが・・・・この、絵筆をあげよう。穂先はバラけているが、ちょっとした細かいところを掃除するには向いてるんじゃないかな。こんなものしかあげられなくて、すまないが。」
「あ、ありがとうございます・・・・。」
少年はそれをどう使えばよいのかわからないといったような戸惑いを浮かべた顔で、それでもくれるからもらっておこうというような調子で受け取った。・・・・ふと、少年に対する自分の行為が、先ほど出会った学者とそう大して変わらないことに画家は気がついた。初対面の人かものを取り上げ、そのお礼にとりあえず何かを渡す。自分が学者に渡したスケッチが少年が自分にくれたパンの耳で、学者がお礼にとくれた名刺が今自分が渡した使い古しの絵筆。しまった、彼と自分の行動があまり嬉しくないかたちでシンクロしてしまった。
・・・・・・・・それならばこの絵筆も、少年にとっては全く価値がないものかもしれない。まあ何も返さないよりはマシだろう。たぶん。使いどころがどうしても思いつかないなら、家のお母さんにでも渡せばいい。
少年は絵筆を手にしながら、画家にたずねた。
「あなたは、ずっとここにいるんですか?」
「うん、しばらくはそのつもりなんだ。ボクは絵を描きながら世界を旅しているんだよ。」
画家は目前に広がる大きな世界の風景を、遠い目で眺めた。少年も彼の視線にしたがって、同じ方向に目を向ける。
この世界は、鮮やかな色で彩られている。
町や村で暮らす人々は、個性的な人ばかり。
森や野原を道行くオバケは、ふしぎな生き物ばかり。
まるで誰もの目がきらきらと輝くサーカスのテントの中にいるかような、非日常によく似た日常があたりまえの世界。
ちょっと大ボケな人々が住む村も、豊かな森も、にぎやかな町並みも、風渡る平原も、海のように広い湖も、夜空にのぼるあの大きな黄金の月も、この世界にある風景はなにもかもがいつだって新鮮で、美しい。
ここは幻想的な映像に満ちた美しい世界。
・・・・そんな世界で生きている自分は、なんて幸せなのだろうと思う。
「この世界は、美しく、奇妙で、そして驚異に満ちているね。・・・・・・・・ボクはそんな世界の風景のひとつひとつを、できるだけ多く、描き残しておきたいんだ。」
画家は川辺をそよぐ気持ちのよい風に吹かれ、瞳を細めて言った。
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