ボクと魔王と泣き虫娘







 


 マルレインが部屋に閉じ篭って出て来なくなったのは、一年の暮れを示す祝い日の夕暮れのことである。最初こそ気にしていなかったルカだが、祝いごとの準備で忙しくなってくるほど、段々と心配になってきた。いつもなら喜んで母の料理を手伝っているというのに、どうしたというのだろう。

 

 いろいろなことがあった一年も、終わりを告げようとしているのだ。今年はサーカスのあの呪われた夜(ありのままの意味で)から始め、魔王のニセ魔王退治の旅に付き合わされ、勇者に殺されかけ、王女に平手打ちされ―――挙句の果てに、そんなレベルの騒動では納まらないほどの大騒動の当事者にまでなってしまったのだから、実におっかない一年だった。
 おかげさまで今まで縁が無かった世界に首を突っ込んで、それでいて今こうして今までの平穏な暮らしが出来ているのだから、我ながら大した人間だと思う。とは言っても未だに魔王が悪そうなことを仕出かそうとしたり、勇者が魔王に喧嘩を売りに来たりと、以前よりも平穏とは言えなくなったのだが―――それでもめげずに生きている自分は、以前よりも成長しただろうか。

 あるいはただのバカなのかもしれない、とも思った。魔王を自分の影に連れて平穏な暮らしができているのも、自分も魔王もバカだから、の一言で片付いてしまうのだ。
 世界征服を企んでいて実際それなりに実力もある魔王スタンだが、彼の魔王としてあまりにも残念な人柄ゆえに、未だにそれは叶いそうもないので当分はそんな事態を心配する必要もなさそうだった。逆に、世界を征服できるかもしれないほどの巨大な力が自分のすぐ近くにあっても、それを実行しないで今まで通りにのんきに暮らしている自分は、やはりバカなのではないか。時折そう思うことがある。

 平穏な暮らし―――それはマルレインも同じはずだった。
 ルカには想像も出来ないほど長い、長い間を独りぼっちで過ごしてきたマルレインは、突然現れた平穏な暮らしというものをどう感じているのだろう。マルレインにとっても、今年は大きな一年だったはずである。それでいて今までの暗い過去を捨てて、今を穏やかに過ごしているのだからまた大したものだった。
 それは勇者ロザリーも同じだろうし、他の面々にとっても同じなのだろう。
 そんなわけで今日はえらく大忙しだった一年を締め括る祝いの日なので、ロザリーがそのお祝いに来るらしい。そういう連絡があったが、日々予告無しにスタンを奇襲してくるのだから、どちらにしても普段と変わらない。

 

 それなのに、マルレインは午後から塞ぎ込んでしまったのである。
 もう家の前の噴水広場にはテーブルに白いテーブルクロス、燭台も用意され始めているというのに。太陽は黒い森の中へと沈み始めている。
 ルカは、実体化したスタンと共にテーブルを運ぶ手伝いをし終えたところだった。自分の家を見上げると、夕日に照らされて白い壁は紅く、紫の屋根は赤紫に変わっていた。
 マルレインの部屋の窓には、灯りが灯されていない。

 

「なんでなんで余が、こんな人間の定めたただの祝いごとにわざわざ加担せねばならんのだ・・・・。魔王が人間と祝いごとをするなど、虫唾が走る思いだ。まったく、面倒ったらありゃしないわ。」

 

そう言いながらも結局協力してしまっているスタンの言葉は、ただの戯言にしか過ぎなかった。立派な黒服に金色の髪を持ち、姿だけはたくましい男のくせに、いじけて顰めた表情とともに言っていることはまるで機嫌の悪い子供のようで、そのギャップがなんだか情けない魔王である。その男の姿で普段の口調で喋られるよりは、いつものペラペラ影の姿の方がまだ似合っている・・・・と言ったら彼に怒られること間違いないが、その情けない魔王の子分であるルカは心の中でため息をつく。
 ぶつぶつと呟いていた彼だったが、不意にぽんと手を打った。頭上に豆電球が見えた。

 

「そうだっ!この祝いの日を思い切りぶち壊して、魔王の恐怖を世界に知らしめた記念すべき日に変えてやろうではないか!どうだ子分?」

「ロザリーさんに怒られても知らないよ?」

 

 

―――シュッ!

 

 ルカが諌めるのが早いか否か、どこからともなくレイピアが飛んできてスタンの鼻先をかすった。
 驚いたスタンがうおおっと叫んで、条件反射的にかルカの背後に素早く回り込み秒速で影の中に溶け込んだ。次に現れたのは、ルカの影から伸びたペラペラの黒いスタンの姿と、茂みから不機嫌そうに顔を出したロザリーの姿だった。

 

「ちっ。・・・・・・・・あと少し狙いを右に定めていれば仕留められたのに。ミスしたわ。」

 

今まで閉じていたらしい日傘をぱっと差して、ロザリーは般若のような睨みを利かせたどす黒い笑顔で歩み寄ってくる。かっこいい勇者登場とはとても呼べない襲撃に、背後のスタンが戦慄しているのがわかった。ルカも怖い。

 

「魔王がそんな簡単にやられてたまるか!祝いの日の挨拶がそれでよいのか、この不届き勇者がーっ!」

「あーら、さっきまで良からぬことを企んでいた魔王さんに言われる筋合いはないわ。今晩はあたしがアンタを監視しているから、少しでも何か悪いことをしようとしたら即座に斬り捨てるわよ?」

「キサマがわざわざここまで訪ねて来た目的はそれか!」

 

怒り(とおそらく恐怖)で震えるスタンを見てふっと鼻で笑うロザリー。その顔ではどちらが悪役かわからない。
 今晩彼が何か仕出かすのではないかという彼女の予想は、見事に当たっていた。もっとも、考えが子供じみているスタンの頭の中で思いつくことなど、容易に想像できることだが。しかし正に忍びの如き先制攻撃だった。いやまずレイピアの使い方が間違っている。投げ槍のように使うものではないはずだ。忍びというより原始人か。そう見えたことは言わない。

 とりあえず、スタンには自分の影を逃げ場にするのをやめてほしかった。スタンが背後の影に一体化してしまえば、最終的にロザリーと真正面に対立するのはルカになるのだ。ルカにも何をしでかすかわからないロザリーに対する恐怖心はある。スタンは魔王らしいのからしからぬのか卑怯な性格をしている。・・・・いや、魔王と勇者、今の時点で卑怯さは五分五分であるのだが。
 それで、とロザリーは先ほど一直線を描いて木の幹に突き刺さったレイピアをひっこ抜いて腰に差し、ようやく顔を元に戻してルカににこやかに笑いかけた。

 

「こんばんは、ルカ君。突然お邪魔してごめんね・・・・これ、おみやげに持ってきたシャンパンなんだけど。おかーさんに渡しておいてくれない?」

「あ、ありがとうございます・・・・」

 

茂みから唐突に現れた勇者からシャンパンを手渡されるのも変な気分だ。大人しく正面の門から入ってくることはできないのか、と思いながらルカは瓶を受け取った。
 ロザリーは彼にそれを手渡すと、辺りの広場を見回した。テーブルの上の燭台の蝋燭に火を灯しているルカの父と祖父の姿を見つけると、軽く会釈した。そして、ルカに向き直って首を傾げる。

 

「ねえ、マルレインは?家の中にでもいるの?」

「あ。その、いるはいる、んですけど・・・・」

 

部屋の中に篭ってなかなか出てこないことを告げると、ロザリーは驚いたように目を丸くした。

 

「マルレインが?なにかな、どこか調子でも悪いのかしらね。あの子だったら、お祭りごとなら大喜びしているんじゃないかって思ってたんだけど。いや、別にお祭りっていうわけでもないんだけど・・・・まあお祝いだものねえ。」

「・・・・ボクもそう思ってました。」

 

 こんなおめでたい日に一人部屋に篭るなんて、彼女は何を考えているのだろう。もしかしたら、何か嫌なことでもあるのだろうか。しかしルカには、その理由が思いつかなかった。
 正直に言ってしまうと、今日は単に一年の境目の日だというだけで、それを除けば普通の日となんら変わりはない。スタンの言う通り、人々の定めた区切りの日に、行く年来る年へ対して祝うだけである。それに塞ぎ込む理由なんてあるとは思えない。それとも、今年までに何かしておきたいことでもあるのだろうか。
 陽は大分傾いてきている。ルカの影が伸びたせいか、それに応じた影のスタンがいつもより大きく感じた。

 

「どうせ、夜中まで遊びたいがために昼寝でもしておるのだろう。放っておくがいい。」

「そうだといいけど・・・・でも、あたしは心配だわ。こんな日に体を壊していたら大変だし、今からちょっと行って見てこない?」

 

 ルカの返事も待たず、ヒマがあるならキサマも準備を手伝え、というスタンの怒りを含んだ声もさらりと無視して、ロザリーはルカの腕を引いて家の中へ入って行った。自分の家のように入るロザリーに一瞬戸惑ったが、そういえばそれはいつものことだった。
 この一年の間に、随分と変わったものである。
 玄関の扉を開けると、台所の方から良い香りが漂ってきた。せっかくなので料理中と思しき母にロザリーからもらったシャンパンを渡しに行くと、ダイニングテーブルはターキーやらグラタンやらミートパイやらのご馳走で飾られていた。父がグビグビ亭で買ってきたのだろうお酒の瓶も、幾本も置かれている。それらのご馳走は普段の夕食よりもずっと豪華でとてもおいしそうで、思わずスタンともども釘づけになった。そのせいで、やって来たアニーに笑われた上に、頭を小突かれてしまった。同じように見惚れていたはずのスタンにも、マヌケな顔をしているなこの子分め子分め―――と頭を叩かれた。お互い様である。

―――自分は別に、何も変わっていないか。

その事実に、どこか残念なような、案外ほっとしたような、複雑な気持ちに駆られた。

 

 

 

 

 マルレインの部屋は、以前は木の板で塞がれていた空き部屋を利用している。
 廃屋、と村人から呼ばれるほどの古くて大きな家である。手付かずの開かずの間状態だった使われていない部屋がちょうどあったため、今まで忘れ去られていた記憶を掘り起こすように、その部屋を開けて家族総出で大掃除して、彼女の部屋にしたのだった。小ぢんまりとした部屋だが、女の子が一人過ごすにはちょうどよい広さだった。この屋敷の私室の内では唯一、窓のある部屋である。その部屋を見つけたときに最も喜んだのは、マルレインではなく何故か父と母だった。
 今までずっと、誰もが無意識にその部屋を要らないものとして「分類」していたのかもしれない。それが初めて必要とされたのである。その必要とした者が今まで人々から忘れ去られていた少女なのだから、また不思議な巡り合わせだった。ルカとマルレインが出会ったのも、この部屋にマルレインが住んだのも、いわゆる類は友を呼ぶというものだろうか?

 しかしもともとはその部屋も、怪談にありそうな「開かずの間」だったわけである。もしかしたらその部屋には実はオバケが棲んでいて、それに怯えてマルレインは布団の中にもぐっているのではないか―――ルカはそうも考えたが、それならば魔王であるスタンが気付くはずだ。スタンはどう信じられなくとも名ばかりでも一応のところはオバケたちの王なのである。たぶん。
 ならば、理由は一体何なのか。

 

「マルレイン、あたしよ。ロザリーだけど、どうかしたの?」

 

 屋内までピンクの日傘を差している光景にもすっかり慣れた。いい加減スタンも影くらい治してあげればいいのに、とも思うのだが、魔王として意地を張ってしまっているのだろう。だからいつまで経ってもロザリーに付き纏われるのだ。
 ロザリーは片手で傘を持ち、片手でマルレインの自室の扉を叩いたが、中から返事は無かった。

 

「あのね。せめて返事でも聞けたら、あたしたちも安心できるんだけど・・・・」

「寝てるの?・・・・風邪ひいちゃった?それともお腹でも、痛い?」

 

 ルカも呼びかけてみたが、相変わらず返事は無い。彼女の動いた音も一切しない。ロザリーは諦めたように首を振り、そして日傘を持ったまま腕を組んだ。
 目の前には、ひし形の鍵穴が入室を拒んでいる。もしかしたら、彼女は今は部屋にいないのだろうか。しかし、そうならばいったいどこへ行ったというのだろう?

 

「うーん、やっぱり部屋にいないんじゃないの?それかもしくは、眠っているのかもしれないわね。とにかく、今はそうっとしときましょ・・・・外でお祝いが始まったことがわかれば顔を出すでしょう。お腹も空くでしょうし。」

「・・・・うーん、カギさえかかってなければなあ・・・・」

 

今部屋にいるかどうかくらいわかるのに。そうルカが呟いたとき、背後の魔王の頭上にピーン、と再び豆電球が点った。

 

「おお、そうだ子分!余が少し中の様子を見て来てやろうではないか、そこを動くなよ。」

「 ち ょ っ と 待 ち な さ い 。 何ドサクサに紛れて女の子の部屋に入ろうとしてるのよこの非常識魔王が。」

「残念だったな、魔王に常識が通る者などおらぬわ。」

 

 もっともな事を言いながらいそいそ扉の下に潜り込もうとするスタンを、ロザリーが睨んだ。そしてスタンの体を足で踏み潰そうとしたが、それに気付いた影は素早く移動して、ルカの背後へと戻った。そんな大根足に踏まれてたまるか、と一言告げて笑った。ロザリーの怒りパラメーターが上昇するのでやめてほしい。
 しかし、確かに―――女の子の部屋を覗くのは、少し躊躇いがある。スタンは少し様子を見るだけだと言っているが、やはり勝手に部屋に入るのは果たしていかがなものか。
 ならば、とスタンは提案した。

 

「余がカギを開けてやろう。それでキサマらが様子を確かめる、それで文句はあるまい?」

「う。・・・・まあ、そうするしかないか。スタンにだけ見に行かせるのはなんか許せないもの。カギをかけたマルレインには悪いけど、ちらっと確認するだけしときましょうか。」

「・・・・・・・・い、いいんですかね?もし部屋にいたら怒られるんじゃないですか?・・・・・・・・いや、いなくてもたぶん怒られますけど、これ。」

「・・・・まあ、これで怒られたら謝りましょ。元気だったってことで。うん。」

 

 悪いことをしているとは自覚しつつもロザリーは罪悪感の滲んだひそめ眉でとりあえず頷き、心配になったルカは少し冷や汗をかいたが、結局任せることにした。それを見たスタンは意気揚々と扉の奥へ潜り込んだ。
 影が一瞬、何かを見つけたようにぴくりと震えた。が、すぐに鍵が開く音がして、程なくしてスタンが戻ってくる。
 不意を突かれたというようなきょとんとした表情だった。

 

「オルゴールが鳴っていたぞ。どうやら部屋にはいるようだ。案外元気ではないか?」

「あら、そうなの?それ聴いたまま寝ちゃったとか・・・・。」

 

 ロザリーは言いながら、ルカと顔を見合わせた。そう言われても、ルカには全くわからない。とりあえず、開錠してもらった扉にそっと触れ、ゆっくりと半分だけ開いた。
 部屋の中は、暗闇で満ちていた。そこに扉の隙間の光が一筋、差し込んでいる。生活感のある、暖かい電灯の光だった。
 対して小ぢんまりとした部屋の暗闇の中で、窓の形にぼんやりと照らし出されているその光は、ひやりとした冷たい光だ。すでに夕陽ではなく淡い月影となっていた。この小さな部屋を満たしているのは、夜の闇か。
 そんな中で、オルゴールがぽつりぽつりと響いていた。
 ベッドの方からである。古いオルゴールはマルレインの一番の宝物で、いつだって彼女のそばにある。
 ベッドの上の毛布は、丸く膨らんでいた。

 

「・・・・ご、ごめん、なさい・・・・」

「なんだ、起きておるではないか。」

 

声は非常に弱々しく、聞き取れるかどうかの小さな声だった。震えている―――これは、涙声ではないか?

 

「今、見せられないような顔、してるの・・・・・・・・ごめんなさい。ロザリー、ルカ・・・・」

「?」

 

 
ルカは首を傾げた。顔が上げられない―――それ程に泣いているようである。彼女の赤い目が、さらに赤くなっているところを想像した。きっと、その通りに泣き腫らした顔をしているのだろう。疲れたような声色を聞けばわかる。
 しかし、何故だろう。今日は泣くような日でもないというのに・・・・むしろ祝いの日である。何か嫌なことでも、落ち込むようなことでもあったのか。下の階では、家族が大忙しでパーティーの準備をしているのに。
 やはり、腹が痛いのか。涙を流すほどの痛みとはどんな感じなのか、ルカには想像ができなかったが―――動けないほどに痛いのはよくわかった。なんとかしなければ。

 

「ご、ごめん、ちょっとお薬取ってくる。」

「え、ちょっ・・・・・・・ちょっと待って!・・・・そ、そうじゃないの。そうじゃなくって・・・・」

 

 慌てたようにマルレインが大きな声で、ルカを止めた。ルカの隣ではロザリーが苦笑している。
 彼女に断りもなく鍵を開けた張本人のスタンが、何か言える立場でもないにもかかわらず背後で不機嫌そうに言った。

 

「なんだ、はっきり言え小娘。そんな風にめそめそめそめそ泣かれると、こっちがうっとうしくなるわ。せっかく人が気にかけてやっているというのに、全く・・・・。薬がいらんなら筋肉痛か、それとも腰痛か?それとも呪われたかな?余が治してやろうか、クッククク。」

「・・・・空気の読めないバカ魔王はとりあえず引っ込んでなさい。」

 

ロザリーはため息をついた。オバケのせいで呪われたとしても、スタンにだけは治されたくない。

 

「ごめんね、勝手にドア開けちゃって。でも気になっちゃってね・・・・。・・・・ねえマルレイン。もし悩みか何かがあるなら、遠慮しないで言ってくれていいのよ?あたしでもいいし、おかーさんでもルカ君でもいいのよ。イヤな顔なんてしないわ。」

「・・・・ありがとう。でも、いいの・・・・。」

「そう?うーん、わかったわ。理由はよく分からないけど・・・・でも、今日は特別なお祝いの日よ。こんな日に泣いていたら、良い年越しにならないと思うの。・・・・無理にとは言わないけど、参加できる?」

 

 できたら行きます、と暗闇の奥から小さく返事が来た。
 じゃああたしは先に行って、準備を手伝っているわね―――ロザリーはそう言って廊下を歩いていき、階段を下りて行った。それをなんとなく見送ってしまったルカは、やはりマルレインのことが気になり、半分開かれた部屋を覗いた。

 静かである。
 鳴り響くオルゴールの音色、外の賑やかな会話の声、下の階からのかすかな料理をする音。
 それが耳に届いてきても、静かだと思った。この部屋の空気が静けさを引き立てているのか。
 ルカは躊躇いながらも、部屋に踏み込んだ。自分の影が床を照らす光の中に映しだされている―――かと思いきや、ルカの影はスタンが乗っ取っているため、そんなことも無かった。自分は逆光になっているはずなのに、目の前に影が映っていないなんて。中々摩訶不思議な光景である。
 スタンがそんな小娘は放っておけと言っているが、何故泣いているのかルカは気になっていた。何が悲しいのだろう。祝いの日には、悲しいことなんて合わない。・・・・余計なお世話なのかもしれないけど。
 ルカはマルレインの篭っているベッドへ、あまり音を立てずに歩み寄る。
 オルゴールの音が大きくなるにつれて、マルレインのくすん、くすんという泣き声もはっきり聞こえるようになった。

 

「・・・・どうかしたの?どうして泣いてるの?」

 

 泣き声が少し止まった。
 スタンは、口を挟む気にならないのか、ルカの影に潜り込んだ。
 オルゴールの音だけが、耳に心地好く聴こえた。しかし、それも段々とゆっくりになり・・・・やがて、何も聴こえなくなった。

 沈黙が訪れる。
 どうしようもなく困り果てたルカは、とりあえず塞ぎ込んでベッドに潜っているマルレインの横に、ちょこんと腰掛けた。

 

「えーと、な・・・・何か・・・・悲しいとか?」

「・・・・悲しくて、泣いているわけじゃないわ。」

 

 初めて、マルレインがはっきりと言葉を紡いだ。
 狼狽するルカの前で、マルレインは体を起こした。そして真っ直ぐにルカを見る。髪は乱れてしまっていて、その赤い目は想像通りさらに赤くなり、そんな今も止め処もなく涙が溢れ出ている。ぼろぼろ、ぼろぼろと透明な雫が頬を伝って流れ落ちていた。鼻水をかみすぎたのか鼻の先が真っ赤だ。
 思わずルカはぎょっとして、即座にズボンのポケットからハンカチとちり紙を取り出してマルレインに渡した。マルレインはありがとう、と頷き、ちり紙で鼻をかんだ。

 

「何が悲しいってわけじゃないの・・・・。・・・・だって、今日は、とても大切な日だもの。」

 

口ではそう言いながらも、ぐすぐすと涙を流している。涙腺でも決壊したのだろうか。

 

「・・・・今までの自分を捨てたいの。」

「・・・・捨てるために、泣いてるってこと?」

 

 マルレインは答えない。無言で、自分の頭を乗せていた枕を腕で抱きしめた。その白い枕は、涙でぐっしょりと濡れてしまっている。枕の表面には、灰色の染みが幾つもあった。
 マルレインの瞳や頬の雫が、扉から入ってくる家の明かりと外の月の光できらきらと光っている。

 

「わたしね・・・・きっと、たくさん悪いことをしたんだと思う。・・・・この雫の数だけ、わたしは悪いことをしたの。それは、今年一年だけじゃなくて・・・・ずっとずっと前から。」

「・・・・?マルレインは別に、悪いことなんてしてないよ。」

 

 したわ、と言ってマルレインはまた泣き出した。
 それは―――今まで、マルレインの父親が彼女のために人々を分類し束縛し続けていたこと、それを言っているのだろうか。
 しかしそれはマルレインのせいではない。今さらになってそれを考える必要もないだろう。なにもかももはや済んだことなのだ。マルレインが自責の念に駆られる必要だってない。
 しかしそれに対し、彼女は違うと言った。

 

「悪いのはわたしなの。・・・・自分から閉じこもって、ずっと逃げていた・・・・悪い自分。それは、ずっと同じで・・・・今も変わってないの。悪いのは自分なのに、人が関わるのが怖いから、逃げてるんだわ。」

「こ、怖いの・・・・?みんな、マルレインのことをキライになんてなってないよ。どうして怖いの?怖くなんてないよ?」

「みんなが・・・・」

 

マルレインは泣き腫らした目を閉じた。

 

「みんなが、優しいから。みんなが、いい人だから。わたしが、今まで出会ってきた人たち。おかーさんも、おとーさんも、アニーも、おじーちゃんとおばーちゃんも・・・・ロザリーも、スタンも優しいから。みんな、優しいから。・・・・・・・・ルカ。あなたも・・・・」

「優しいことが、怖いの?」

「・・・・・・・・例えばね。わたしがみんなから嫌われてしまうことをしたら、みんないなくなってしまうかもしれないわ。だって、わたしは悪いことをしたから。悪い子だから。そんなこと、当たり前なの。それでも、手放したくないの・・・みんなに置いていかれて、いつかまたひとりぼっちになるのが怖い。・・・・・・・・一度手に入れた幸せ気持ちは、わたしには、ずっとずっと、重いの・・・・。」

「・・・・・・・・。」

 

 ルカはその気持ちが、少しわかる気がした。
 幸せになればなるほど、幸せを失うときを恐れる。しかしルカは、そこまで泣くほどそのような繊細な問題を重要視したことがなかった。
 きっとマルレインは今、とても幸せなのだろう。それだけが強くわかった。

 

「・・・・でもそれって、自分勝手よね。わかってるのよ。人を疑ってしまうことそのものが、よくないことなんだって。今のわたしは、誰かと一緒にいるには、誰かを好きになるには・・・・。怖がりで、汚くて・・・・とても弱いの。」

 

 弱くて内気な自分を責めている、ということだろうか。
 しかし、それはルカ自身だって同じである。自分もまた同じように怖がりで弱い人間だ。人の目は気にするし、人と関わることを人並みに面倒臭がる。強い人の前では、強くなれない。何より自分を主張して喋れない。自己主張しすぎるスタンに振り回され、その他いろいろなことに関わって、以前に比べたら少しはマシにはなったものの、心根は全く変わっていない。「ただの少年」以上のものには、なれていない。
 それに比べ、マルレインはどれ程に勇気があることか。自ら進んで安全で孤独な世界から飛び出し、この様々な人間の飛び交う世界へ彼女はまた立ち向かった。今まで恐れていた世界に、再び戻ってくることができたのだ。それはすごいことだと思う。マルレインはそんな自分を、弱虫だと言い張るのか。

 ・・・・もしかしたら、彼女は今このときも、戦っているのかもしれない。
 たくさんの不安、恐れ、痛み、罪・・・・自分自身を襲う弱虫と。

 彼女はまた泣いた。

 

「・・・・・・・・ルカは知ってる・・・・?涙は、ヨゴレを洗い流すためにあるんだって。だから・・・・汚くて弱い自分を全部、涙で流してしまえばいいのよ。・・・・わたしの中から、弱虫が洗い流されたら、きっとわたしも・・・・」

 

 強くなれるかもしれない。
 悪いことをした分だけ、ヒクツになった分だけ、弱い自分を涙とともに流すのだ。
 今までの自分を捨て、汚れが洗い流された新たな自分となって、来年を迎えたい。そういうことらしい。
 マルレインはまた、ぼろぼろと涙を流した。

 その涙の雫に、どれだけの思いが込められているのだろう。
 ―――流した涙の分だけ、自分が変われればいい。涙は、弱い自分の象徴だ。今までにたくさん悪いことをしてきたから、その悪い部分が涙の中に溶け込んでいる。
 この流れた涙が悪い自分自身の欠片だったら、それを流した分だけ、自分は綺麗な人間になるのだ。そうして年の末に涙を全て出し切ってしまって、生まれ変わった綺麗な自分として、新たな年を迎えられる。

 

「わたしも・・・・ロザリーみたいに・・・・リンダみたいに、・・・・強い女の子に、なりたい・・・・。」

「バカか。」

 

再びスタンがにゅっとルカの背後に現れた。暗闇に浮かぶ黄色い目を吊り上げて、声色はものすごく不機嫌そうである。

 

「そう理由づけて泣いたところで何の意味も無かろう。その行為自体が弱虫のすることなのだ。気づけマヌケが。」

「・・・・・・・・・・・・」

「結局、愚かな自分が悲しくて泣いているだけではないか。くだらん解釈はやめろ、ばかばかしい。」

 

 見上げるマルレインの泣き腫らした顔を、スタンはペラペラの手でぺちんと叩いた。う、と彼女は呻いて顔面を押さえ、またぼろりと涙を零した。これではまるで切りが無い。しかし、ありがとう、とマルレインは小さく呟いた。
 彼女は一度、王女様という強気だった自分を手に入れているのだ。以前まで強気な自分という代わりの人形の後ろに隠れていたのだから、それが消えてしまった今、弱気な素の自分に自信が持てないのかもしれない。せめて、年の境目であるこの日に、少しでも自分を変えたかったのだろう。

 それで、泣いて、泣いて、泣いて―――
 今まで自分がしてきた悪いと思うことを償い、そうすることで今までの要らない自分を捨てたかったのか。
 しかし、結局は全て空想である。

 

「・・・・泣いたら、変われたの?」

 

ルカの問いに、マルレインはゆっくりと首を横に振った。

 

「全然変わってない・・・・わたしの中の弱虫を捨てようと思ったのに・・・・泣き虫になっちゃったみたい・・・・。」

「じゃあ、すっきりした?」

 

 マルレインはまた首を振った。
 じゃあ今度は、ただすっきりするために、少し泣いてもいいんじゃない。ルカがぼそりとそう言うと、マルレインはまた静かに泣き出した。
 泣くことに、理由なんて必要無いのだ。

 

「・・・・わたしって、やっぱり・・・・弱虫で泣き虫。・・・・今日は、一年を締め括る、大事な日なのに・・・・わたしはいつまで経っても変わらないのね・・・・。」

「別に・・・・無理して変える必要は無いと思うよ。」

「・・・・・・・・くやしいの。」

 

少し強い口調に、ルカはマルレインを見た。

 

「わたし、こんな子じゃなかったもの。もっと強くて、元気で、気高かった。・・・・そしてもっとずっと、かわいかったもの。」

「え・・・・」

「ルカが知っているマルレインは、こんな子じゃなかった。そうでしょ・・・・こんな風に泣いたりなんて、みんながわたしのことをどう思うかが怖いなんて、そんなこと・・・・思ってもいなかったわ。」

 

マルレインはルカの目を見つめる。彼女の瞳の中の影は、本当に悲しそうで、くやしそうで、さびしげだった。その瞳の影を、光を、ルカは見覚えがあった。

 

「ルカ・・・・。悲しい?どう思ってる?あのきれいな王女様の中身が、本当は・・・・こんな、ちっともかわいくない、つまらない子だったのよ。悪くて、汚くて、きれいなところなんてひとつもなくて・・・・。・・・・きっと、前のわたしの方が・・・・ううん。マルレイン王女様の方が、ずっとステキで、かわいかったと思うよね。ねえ・・・・そうでしょ・・・・・・・・ルカ・・・・」

 

 思わぬ言葉に、ルカは戸惑う。彼女は、過去と今のマルレインを比べている。
 ルカがその言葉に答えることを恐れたのか、マルレインは視線を逸らして枕の中に顔を埋める。そして何よりも強い口調で言った。

 

「わたしは王女じゃない。最初から、そうよ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・。ずっとルカは・・・・わたしなんかとずっと違う女の子を見てたのよね。きっと、びっくりしたでしょ・・・・・・・・わたし、あなたが思ってたのとは違う、ふつうの女の子だったんだもの。ごめんね・・・・・・・・ごめんなさい、ルカ・・・・」

 

 ―――彼女の泣き顔を見て改めて、ルカは少し考え、そして不思議に感じた。過去の王女マルレインと今の少女マルレインが、同じ人間だということ。同じ人間だと分類されていたこと・・・・

 ルカ自身はそのことについて、これまであまり考えてはこなかった。自分にとって一番大事なこととは、マルレインという女の子に再び出会えたという事実だった。
 一度彼女の存在を失ってから、これまで味わったことのなかった種類の孤独感を感じた。自分がひとりぼっちであるときの、自分の姿が透明になってしまったような冷やかな孤独とは違う。それは自分の中に穴がぽっかり空いてしまったような、虚しさをともなった深い孤独だった。そのときになって初めて自分は、自分が一人ではなかったことを強く認識した。彼女が、自分を見ていてくれたからだとやがて気付いた。
 マルレインに再び会えたとき、その少女の姿がこれまでと違っても、すぐに彼女だとわかった。ずっと探していた人に巡りあえたことが何よりも嬉しくて、それだけで十分だった。
 かつてのマルレインはとても気が強くて高飛車だった。そして本当に王女だったかのように気高く美しく見えた。今のマルレインは全くの正反対で、大人しくて頼りなく、弱々しい普通の少女だ。もしかしたら地味、と言えるのかもしれない。少なくとも個性が溢れんばかりの王女と比べたら。まるで消えてしまいそうなほどに、その光は希薄だ。
 実際本当に消えてしまったのだ。まさに自分と同じに。
 しかし彼女にも確かに、確かな個性がある。彼女らしい心がある。そして彼女のかけらは確かに王女マルレインの姿のうちに見え隠れしていた。ルカは知っている。

 

「悪いのは・・・・本当に悪かったのは・・・・・・・・本当のわたしを偽ってごまかして、誰からも見てもらえるように仕立てて飾っていた、わたしそのものなの。そのかわいいお人形の後ろで、わたし、ずっと逃げて、隠れて、泣いていて、・・・・笑ってたわ。わたしじゃなかったけど、王女様として見られてたから。王女様だったから・・・・優しいみんなに声をかけてもらえて、たくさんの人に囲まれて、幸せだった。そんな気持ちになって、いい気持ちになって・・・・泣きながら笑って、そうやって逃げてたの。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「でも・・・・・・・・わたし・・・・。わたしが王女様だったとき、ルカを召使いにして・・・・たくさん独り占めして、たくさん見てもらえてた。わたし、そのつもりになってた。でも、違う・・・・・・・・ルカが見ていたのは、違う女の子よ。わたしは最初から王女様じゃないし、もとより物語の登場人物で・・・・同じ名前の、別の誰かさん。同じ名前の、でも全然違うお姫様だわ。わたしなんかとは、とても違う・・・・。それが・・・・・・・・それが、すごく・・・・さびしくて、くやしいの。だってわたしも・・・・わたしも、きれいな王女様に、なりたかったんだもの・・・。わたしだって、わたしだって、「マルレイン」なのに・・・・・・・・!」

 

もういいよ。ルカはその言葉を言えなかった。

 そうやって自分を嫌い、憧れの女の子の姿と比べて涙を流す姿は、ひたむきな言葉は。

 
とてもマルレインらしくて、彼女らしくて、見ているとルカはとても優しい気持ちになった。

 その気持ちは、今まで何度も感じたものだ。彼女が王女様だったときからずっと。

 そう―――悩む必要などないのだと、彼女に伝えたかった。

 普段はあまり積極的に使わない自分の口で、慎重に言葉を選ぶ。

 

「あのさ・・・・。えーと・・・・ボクは、あの子も・・・・キミだったと思うよ。」

「え・・・・?」

 

不意の言葉に驚いたマルレインが顔を上げる。

 

「だって・・・・王女様だったときのマルレインも、同じことを言ってたよ。・・・・『あの子の方がかわいくて、自分はいやな子だ』って・・・・落ち込んで、お部屋に逃げて閉じこもって、もしかしたら・・・・泣いてたのかも。今と同じようにね。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「あと、それで、すごくくやしがってた。ヤキモチ焼いてたよ。」

 

 ルカは泣きはらした赤い瞳を、少し覗きこむ。
 その瞳は、少し形が違っても、宿っている心は同じだと思った。

 

「キミも、一緒に、泣いてたんだよね?・・・・同じ目で、たぶん。」

「・・・・ルカ・・・・・・・・」

「その・・・・マルレインは全然変わってないよ。前も、今も。・・・・ずっと変わってないよ。王女様だったかどうかなんて関係ないよ。おんなじ名前の、おんなじ性格の、ずっと同じ・・・・女の子だと、思う。ボクはそう思ってる。」

 

ルカはふと、頬を赤らめて目を逸らす。

 

「それで。・・・・えー、と・・・・・・・・・・・・ボクは、キミのことが・・・・・・・・かわいい、って・・・・お、思う、よ。
 
え、ええと、ヘンな意味じゃなくて・・・・その。ぼ、ボクから見たら、だけど。」

 

しどろもどろながら、普段の様子と違いたくさん喋るルカにマルレインは、泣いていたことも忘れて彼の顔を見上げた。

 

「あ、その、おとーさんもおかーさんも、みんなキミをかわいいって言ってるし。おかーさんだって、マルレインはやさしい子だって言ってたし・・・・だから悪い子だとは思ってないと思うよ。もしキミが悪いことをしたら、おかーさんはちゃんと怒ると思うし。それにボクもみんなも、いなくなったりなんてしないよ。だってみんなマルレインのことが好きだし・・・・・・・・それに・・・・」

 

 今の一言の意味をマルレインに深く追求されるのではないかと焦り、彼女の言葉を挟む暇も与えず慌ててルカは言葉を絞り出す。自分の言っていることが、マルレインが気にしていることに対する答えになんとなくなっていないような言葉不足な気がしていたが、どうしてもうまく言えない。うまい表現は思いつかないし、考える時間はないし、何より照れて仕方がない。
 みるみるうちに真っ赤になるルカを見つめ、マルレイン自身はその言葉の意味に赤くならず、少し沈黙した。そして静かに呟く。

 

「・・・・ずっと?ねえルカ、ずっと・・・・そう思ってた?」

「え?」

「わたしが王女様だったときも、かわいいって、思っていてくれていたの?」

 

さらに思わぬ言葉に、ルカは目を瞬く。王女のマルレインと、少女のマルレイン。それは2人の同じ少女から、同時に尋ねられている気がした。

 

「「わたし」、ずっと自分が好きじゃなかった。かわいい王女様は憧れだったわ。その身分があれば、きれいなドレスや冠があれば・・・・自分がかわいいお姫様なら、「わたし」はどんなこともできると思ってた。でも、そうじゃなかったの。本当は何もできなくて・・・・それでもえらそうに、ワガママでナマイキになってしまう自分は、自分という子は・・・・どうしても、好きになれなかった。「わたし」、そう思っていたの。
 それでもルカは、わたしをかわいいって、思っていたの?」

「ボク、は・・・・」

 

 マルレインはルカを見つめる。不安げで少し弱気だけど、その中に強い光を灯す両目と口調。

 やっぱり、ずっと変わっていない。きっとずっと同じ女の子であるのに変わりがない。
 ここにいるマルレインと、王女様だったマルレイン。確かに体は別々の人間だったけど、心のかたちは同じ。王女の彼女が思ったことを、目の前の彼女もまた考えていたのだろう。王女の彼女が苦しんでいたとき、きっと君も苦しんでいたはずだ。別々の、しかしそれでも同じ心を持っていたのだから。彼女が2人いても、それは確かだったのだと、今わかる。
 ルカは目を逸らしたくて仕方がなかった。この言葉を今言ったら、本当に・・・・彼女に自分の内心を打ち明けてしまうことになる。今までさりげなく感じていて、あえて言わないでいた彼女への印象を。
 それはとても恥ずかしいことであるように感じた。でも、本当のことだった。

 やはり少しだけ目を逸らす。

 

―――それでもルカは、わらわをかわいいと、思っていたのか?

 

 

「・・・・・・・・えっと。か・・・・かわいいかもって、思ってたよ。・・・・その、かわいいところもあるなあ、って・・・・」

 

 

 

撃沈。

 

 ルカは恥ずかしさのあまり抱えた膝に顔面を埋めて項垂れた。ダンゴムシと同じ格好でヤドカリが殻に籠るがごとく丸まった。あまりの情けなさに自分が泣き出しそうになったが、なぜ泣きたくなったのか自分でもわからない。
 例えば年上のロザリー相手であれば、「おねーさんきれいですね」の一言もさらっと出てくるのであるが(彼女の機嫌を取る計画心がないこともないが)、同じ年頃の女の子にどうして可愛いと言うことが、どうしてこんなに難しいのか。いや、違う。幼馴染のジュリアにだって、彼女が自分に同じことを尋ねてきたら、それなりに褒める言葉も口に出せる。ならばなぜ今さらこれほど恥ずかしくならなければならないのか。
 しばらく静かな沈黙が訪れた。マルレインがどういう顔をしているのかわからないが、顔を上げられないのは今度はルカの方に回ってしまった。

 

 

「ククク。まあそういうことでだ。」

 

そういえばずっと背後にいたらしいスタンが、見ていておかしい気持ちを抑えるように低く笑うのが聞こえた。・・・・聞かれていた。彼の存在を忘れていた。第三者が実はすぐ後ろにいたことを思い出し、いよいよルカは顔を上げられなくなる。

 

「小娘、キサマは昔からちっとも変わっておらん、子分はそう言いたいのだ。キサマはずーっとひ弱で全く役に立たんワガママでくだらん泣き虫娘で、今さら必死になって変わろうと思おうがムダだということだ。わかったか?だいたいそんなキサマの情けないひ弱ぶりは、キサマ以外の誰もがとっくに承知しておることだろーが。そのくせ何かと恐れるのはアホなキサマの一人コーヒーカップだ。」

「・・・・・・・・うん。・・・・そうね。」

「わかったらキサマ、さっさと洗面所行って顔を洗ってこい。その汁まみれの顔は見ていて不愉快だ、メガブサイクがギガブサイクになっておるわ、フハハハハ!」

「・・・・・・・・。すごく失礼ね、スタン。」

 

 スタンの高笑いの中に静かな怒りを含んだ呟きが聞こえた。ルカ自身としては、王女だったときも今も変わらず可愛らしい女の子である・・・・と言いたかったのだが、スタンの言い草により意味がまるで反対の変化のなさに強調されてしまった。フォローにならない・・・・・・・・というよりフォローを覆すフォローをしてくれた彼に、ルカはより一層項垂れる。そういうことを言いたいんじゃなかったのに、この魔王は。
 しかしマルレインは不機嫌になったようだが、泣いているよりは怒っている方が良い。その方がずっと彼女らしい。それは、前から知っていたことだ。
 スタンはスタンで、彼女を慰めたつもりなのかは怪しいものの、結果的にそれなりに元気づけているように感じた。乱暴な悪口は彼の通常運転の言葉だ。そんな悪口が不思議とあたたかく響いて聞こえるのは、彼と長く付き合いすぎたからだろう。ルカは顔を膝に埋めたままそう思う。
 やがてマルレインがベッドから降り、歩いて離れていく気配を感じる。スタンの言葉通り、洗面所に向かうつもりだろうか。どうやら少し元気が出たようで、ほっとした。

 

「ルカ。」

「・・・・・・・・うん。」

「ふふふ、ありがとう。」

 

懐かしい笑い声にやっとルカが顔を上げると、マルレインはすでに姿を消していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が深くなり、噴水広場のテーブルの燭台の蝋燭は火が灯された。ルカは料理を外まで運びテーブルに並べ終え、うんと伸びをした。
 今晩は夜遅くまで食事をしながら語り合ったり、ゲームで遊んだりするだろう。村はずれにあるので普段は人が訪れないこの家だが、今日の夜の間は両親の知り合い、アニーや自分の友人が年の締めの挨拶回りにやってくる。その訪れる客のために料理は多めに作ってある。
 マルレインに本当に恥ずかしいことを言ってしてしまったのかもしれない、とルカはいまだに全身の火照りを抑えきれていなかった。それこそまるで男の子が女の子に言う大事な言葉を口にしてしまったような・・・・自分としてはただ彼女に泣きやんでもらいたかっただけなのだが。
 あれからマルレインは部屋から出て、台所にいる後姿を見かけた。母の料理の手伝いをしているようだった。ずっと泣いていた彼女は髪と服を整えていて、今は少し元気になったようだ。しかし出来上がったものを外に運ぶ往復の間、ルカは彼女に声をかけることができなかった。一体どのような顔をして彼女に顔を合わせればいいのか。よりによって年の締めくくりなのに、ぎこちない人間関係のひずみを作ってしまってはいないか。いや、でもマルレインはちょっとだけど笑っていたし・・・・
 恥ずかしさが不安に進化してもんもんと悩みこむルカの肩が、ぽんと軽く叩かれた。振り返るとロザリーが笑っている。

 

「お疲れさま、ルカ君。マルレイン、元気になったみたいじゃない。励ましてあげたの?」

「いや、ボクは何も・・・・」

「あら、そうかしら?・・・・好きな子の言葉はどんな言葉でも、嬉しくなっちゃうものよ。きっとあなたのおかげだと思うわ、ふふ。」

 

 やはり公認なのか、自分と彼女の関係は。もはや隠す余地もない。それでもとりあえず言い繕う言葉を探してみるが、かえってますます恥ずかしくなり、結局いつもの無言で押し通すしかなかった。その無言がさらにロザリーの微笑ましいものを見るような笑みを深めさせてしまう。
 ルカは逃げるように彼女から目を逸らして周囲を見回す。マルレインはまだ外には出てきていないようだ。ルカと同じようにずっと手伝いをしていたらしいロザリーは、腕を伸ばしながら一息つく。

 

「まあ、あの子が何について悩んでいたのかはわからないけど。んー、でもわかるような気がするわ。」

「・・・・・・・・わかるんですか?」

「あはは、なんとなくねえ。だってあのマルレインだものねー、だいたい予想ついちゃうわよ。」

 

ルカはロザリーを見た。

 

「ロザリーさんも、そう思います?」

「え、なんのこと?」

 

 取り留めもなさげな問い返しに彼は答えずに、胸の内で安堵感を感じていた。
 ・・・・やはり、彼女は彼女だ。強気でワガママな彼女も、弱気でやさしい彼女も、その心は変わっていないと、―――今までずっと話し続けていた「彼女」だと、ロザリーもみんなもわかっているのだ。意識せずとも、まるで当たり前の事実がそこにあることを。
 彼女がここにいることは、疑いべくもない事実であることを。彼女の良いところも悪いところも、まとめて知っている。彼女に初めて出会う前からすでに。

 

「マルレインは・・・・やっぱり、マルレインらしいですね。」

「そうねー、女の子は大変なのよ。ルカ君もちゃんと支えてあげるのよ、お互いの気持ちをわかり合うことが大事なんだから。」

 

 彼女もまだ若いはずなのに世話焼きの奥さんのようなセリフを口にしつつ、ロザリーは広場の縁まで歩いていきすっかり陽の暮れた森の方角を見遣った。高台からは漆黒の木々の向こうにテネルの村の明かりが浮かび上がっているのが見える。深い藍色の空はもはや赤みが消えつつある。
 今はまだ静かだが、じきにこの森一帯が騒がしくなるだろう。今日と明日を分ける節目の時間は年もかわる節目だ。田舎の村なので立派な花火が打ち上がることはないが、村人の誰もが市販の花火を買い込むので結局その時間になると花火大会のような状態になる。また歌も音楽も村の外まで響き渡るのである。
 そういえば、マドリルやリシェロなどの他の町はどのような年越しの宴となるのだろう。見たことがない・・・・そもそも自分はスタンに取り憑かれて旅立つまで、テネルの村を出たことさえなかったのだ。他の町の様子が気になる程度には視野は広がったのかもしれない。

 

「・・・・今年も終わるわね。ほんと、今年はとっても大変な年だったわねー・・・・。」

 

 遠くの暮れた空を眺めながらロザリーは、深い嘆きを含んだため息をついた。勇者として様々な経験を積んできたであろう彼女でもうんざりするほどに大変であったようだ。魔王スタンに振り回され、さらに多くのニセ魔王にも振り回され、さらにさらにその上にいる人にまでも振り回され、この過程でえらく遠く・・・・それもこの小さな世界の果てまで歩いていってしまったのだから。その苦労はルカ自身も同じ気持ちで味わった。

 

「・・・・・・・・変な年でしたねえ。」

 

いろいろありすぎた一年を「変」の一言で片づけていいものかわからなかったが、しかし終わってみるとやはり「変」としか言いようがないものだった。どんな苦労も終わってしまえばこんなものかもしれない・・・・ルカは16歳になってひとつ悟りを開いた気分になった。
 ロザリーは振り向き、頭の中で様々よぎる苦々しい思い出を自分で納得させるように何度も頷く。

 

「でも・・・・うん。うん、たぶん、良い年だったと思うわ。ほら、なんだかんだでいろいろ成長はしたと思うし。悪いヤツもたくさんこらしめたしね。それに、ルカ君にも出会えてよかったと思ってるわよ。」

「そうですか?」

「なによ、あたりまえじゃない。あなたがいてくれたから、あたしも今まで知らなかったことを知ることができたって思ってるのよ。・・・・大事なこともたくさん教えてもらったわ。あなたは気がついてないでしょうけどね。」

 

ロザリーは真っ直ぐルカの目を見て言った。彼女はおそらく彼女にとって大事なことを言うとき、必ずその金色の瞳で真っ直ぐに見つめて話す。正義に対しても悪に対しても正直な姿勢で立ち向かう彼女は、人に対しても同じ姿勢で向かい合う。彼女の曇りのない真っ白な言葉が、ルカは好きだ。

 

「ボク、何か教えましたっけ?」

「あはは、違うわよ、あたしがあなたから勝手に学んでるの。あなた自身の立派なところって、自分ではわからないものよね。あたしはそれでもいいと思うけどさ。」

「・・・・たとえばどんな?」

「うーん、すごく頑張り屋なところとか、人が見ないような細かいところまでよく見てるところとか、あとは・・・・流されない自分っていうのを、しっかり持ってるところとかね。あたしよりもずっと、しっかりしているわ。・・・・以前にもどっかでこういうこと、言った気がするわね。ま、それだけじゃなくって他にもいろいろあるわよ。うまく言えないけど。」

 

 そう言われてルカは少し照れくさくなる。しかしロザリーが挙げた「立派なところ」は全て、彼女自身にも当てはまることだと思うのだが。どの勇者よりも努力していて、彼女自身の改善のために自分を見て学んでいるという点でも自分よりはるかに細かいところをよく見ているし、強く流されない意志も持っているではないか。彼女に比べれば自分なんかは地味だし、よく流されてる方だと思うのだが。彼女こそずっと立派な人物なのに、一体何が不足しているというのだろう。ルカは不思議に思った。
 ロザリーは肩をすくめて笑った。

 

「・・・・それにすったもんだあったけど、今まで考えたことのなかったことにも気付かされたしね。やっぱり面白い一年だったわ。あとは・・・・・・・・このピンクの影さえ治ればもっと良い年になったんだけどね・・・・。」

「あ、やっぱりそのオチですか。」

「・・・・オチって何よ。スタンをぎったんぎったんにして私の呪いを解かせるのが今年一番の目標だったのに、結局解けないままあいつを完全に復活させちゃうし・・・・本当勇者として恥だわ、大恥。・・・・・・・・来年は絶対倒す。きっちり倒す。」

 

再び今日家を訪れた時と同じ般若のようなどす黒い微笑みを浮かべて眉間にしわを寄せるロザリーを見て、なんとなく来年の今日も同じ表情をしているであろう予想がついた。スタンを負かし、影の呪いが解けて喜ぶ彼女の姿が全く想像つかない。一方完全復活を果たしたスタンも来年、世界を征服して高笑いを上げる姿が想像つかない。きっと来年もそれなりに世界は平和だろうとルカは一安心する。彼女の方は厄年があと数年ほど続くかもしれない。
 きっちり倒す相手は目と鼻の先にすでにいるのに、なぜ倒せないのか・・・・隔靴掻痒の根源である魔王が、ルカのまさに隔靴の影から彼女をからかうために現れた。

 

「人間どもの言うめでたい日にキサマはそのしわくちゃな顔か。残念だったな、キサマだけ来年不幸になるぞ。せいぜい毎日泣き暮らすがいい。」

「・・・・・・・・。アンタがおとなしくあたしの刃にかかってくれればそれで丸く収まるのよ。」

「ククク、それ以上寿命を縮めたくなければあまり身の程知らずな口を叩かない方がいいぞ。キサマなぞ今の余の力をもってすればすぐに焼き捨てられるのだからな。強火で3分間こんがり焼いて道端に捨ててくれるわ。」

「そこまでの自信があってなんでルカ君のカゲから出てこないのよ・・・・。」

「ふん、何をわかりきったことを。こいつと余は一蓮托生だからな、もしも余が死ぬときがあるならばそのときは余の子分も死ぬときだ。こいつの影も命も運命も余のものだ、ていうかこいつのものは全部余のものだ。はじめっから余が握っておるのだ。いいか?キサマも今さら人殺しなどできんのではないか?」

「・・・・・・・・・・・・ボクを巻き込まないでくれる。」

 

 どこかのガキ大将のような一方的理不尽な主張に、ルカは横目で彼を恨めしげに睨んでやった。つまり、もしもいつか勇者と魔王のラスボス戦が繰り広げられた場合、自分も道連れということか。あるいは自分は勇者に対する人質なのか。どちらにしろ迷惑な話である。別にどちらが勝ってもかまわないので、自分とは一切関係のないところでやってもらいたい。あとそれら自らの所有物の所有権の5割は返してくれ。6割じゃなくてもいいから。
 2人分の冷ややかな視線を受けても、その呆れぶりを理解していないかのようにスタンは勝ち誇った笑みを崩さない。ルカとロザリーはそれぞれ別の嘆きを含んだ深いため息をつき、来年の受難(おもにスタンによる)を覚悟するしかなかった。不幸を引き起こす点で、やはりこの黒い影はツボから出てきた悪魔と言えるわけだ。もう一度ツボにつっこみたい。

 

「まあ、あんたを倒す機会くらいこれからいくらでもあるでしょう。どうにかしてできるだけ人道的な方法であんたを葬れるように努力するわよ。」

「努力しなくても人道的でいてくれないと困ります。」

「大体、アンタの執事はどこに行ったのよ?今日も見かけないじゃない。前々から出てくる頻度もだいぶマチマチになってたけど、まさか自分の数少ないお世話係にまで見捨てられてんの?それでたった一人のよき理解者ルカ君に世話になるしかないってわけ?本当カワイソウな魔王よねー、アンタ。魔王の権威ってその程度よね、しょせん。あはは、笑えるー。」

「うぐ!ぐ、ぐ・・・・。・・・・・・・・ジェームスは、余の命令次第でいつでも呼び出せるわ。従って常に傍に控えさせているも同然。バカにするな。」

「にしては時々、私情が優先されてない?やることが終わったらすぐにどっか行っちゃうし。あのヒトに対して効く魔王の権力ってアンタの言うとこ全体の一体何%なのかしら。同じ執事でも、ベーロンが演じてた執事の方がよっぽど優秀だったわよねえ。あるいは魔力を取り戻した今は少しは言うことを聞くようになったわけ?アンタがお茶を淹れろと言ったらヘンな薬とか入れないで本格派で淹れてくれたりする?」

「・・・・うむう・・・・・・・・ごにょごにょ・・・・」

 

 ロザリーの売り言葉も彼の執事関連となると筋が通ってしまい、スタンは言い返せない。スタンは自らの魔王としての立場にやや疑いを含んだ調子で、自信なさげに口ごもった。下級魔族はおろか自分の近臣からもその扱いでは、大魔王にあるまじき権力のなさが露呈している。加えてジェームスの執事としての能力の怪しさも。もちろん今に知ったことではない。
 スタンのプライドに皺をつけたことでロザリーは満足したらしく、彼を見て鼻で一笑したあと、ルカの父親や祖父母との談笑の方に混じりに行った。ルカが残されたスタンを見ると、彼はいつもより小さくなってしまっている。

 

「くそ・・・・あのクソアマ、余のささやかな傷に塩を塗りたくるような暴言を。」

「・・・・まあ実際、ロザリーさんの言う通りだよね。せっかく全部の魔力を取り戻して実体も手に入れて強くなったのに、何もできてないじゃん。というか何も変わってなくない?力が戻る前と。本当にジェームスに見捨てられてるんじゃないの。」

「うがーっ!お前まで余の傷周りに盛り塩するようなマネはやめろ!あいっかわらず意地悪いなキサマ!こういうのはこう、主人をなぐさめる言葉ひとつ言えんのか!?」

「主人っていうけど、ボクら前に縁切ったんじゃなかったっけ。ほら、別れたときとか。」

「あの解雇契約はクーリングオフしたのだ!契約後数日くらいなら余裕で間に合うぞ。知らんのか?」

 

・・・・クーリングオフという言葉はこういう場合に使っていいのだろうか。

 

「あー。そもそも、余はキサマを解雇するとは一言も言っておらんかったな。子分になった以上、キサマは一生永遠に余の子分、召使い、部下としてこき使われるべしと最初に契約したな。あれはもうクーリングオフできんからな。契約解除期間はとっくに過ぎているからな。」

「どうせ期間内でもこっちの提案なんか受け入れてもらえなかっただろうけどさ・・・・。・・・・すっごいブラックだよねこの魔王極小企業。それと上司。」

「そういうちっさい人間社会的例えは元々・会長魔王に対して使うものだぞ。我々は王と配下の関係なのだ、もっと崇高であるべきものだ。決してブラック企業とかそういうのではないんだぞ。わかるな?」

 

わからん。スタンそのものがまず王にも崇高にも見えない。ただ色がブラックに見える。

 

「とにかく、こーなったらもう一回世界征服しに行かなければならんな!あれだけ目の上のたんこぶだった王女の召使い業はもう解雇されてるようだしな、子分、キサマにはみっちり働いてもらうぞー。いつもどおりなー。準備と覚悟を忘れずにしておけよー。」

「えー、やだよ。今年は結構歩き回って正直疲れたし、一年は家でゴロゴロさせてよ・・・・」

「うぐぐ、受験が終わった学生かキサマは・・・・」

 

 そうと言われても、ルカ自身はこれからが進路を決める時期である。村に住む一人の育ち盛りの少年としては、これからはあまり旅などして冒険や世界征服に時間を割き過ぎるわけにいかず、働くことなど考えないといけない。冒険者・勇者・放浪者として食っていっている人もいるが、いくらそれなりに経験を積んだとはいえ、やはり自分に向いているとは思わない。旅をすることは嫌いではないが、オバケと戦うことが好きだというわけではない。自分に不釣り合いな剣は結局最後まで重かった。
 父は村役場で事務仕事、母は専業主婦・・・・自分はどうしようか。学校に行くか、それともまずはバイトでも始めるか・・・・。たしかに王女の召使いももう終わってしまったのだ。魔王の子分でも別にかまわないが、お給料は一銭ももらえなさそうだ。悲しげな顔をしたスタンを見て、少しだけ笑ってしまった。彼に自分一人で世界征服に出かける、という考えはないようだ。

 変わらない生活もいいが、変わっていく生活も案外悪くない。それはこの一年でわかったことだ。以前と変わっていないボクらでも、変わらないことを望むボクでも、少しだけ変われた部分を持っているといい。自分の中にある同じ風景の箱庭も、少しだけ違う風景を、少しずつ増やしていけるといい。この世界のあり方が少しだけ変わって、違う風景が見えるようになったのと同じように。
 次の一年で、いろいろ考えないといけないな。その先にある道が、・・・・この一年間のように、面白いものになることを願ってみたりしてさ。

 

 

 

 

「スタン!」

 

 いきなり大声がして、ルカとスタンは同時に飛び上がった。
 驚いた2人が振り返ると、目をつりあげたマルレインが、腰に片手をあてて仁王立ちしていた。

 

「な、なんだ小娘か。びっくりしたぞ。」

「さっきはよくも、年頃の女の子にさんざん失礼なことを言ってくれたわね。仕返しは3倍って相場は決まっているのよ、知っているんだから。ルカに寄生しているお前なんか、サナダムシだわ。」

「さなっ・・・・」

「あと、しらみ魔王。ふんころがし。鍋底の取れない焦げカス。お前なんかさっさとルカに見捨てられてひとり部屋のすみっこで脱いだまま放置されたかわいそうな靴下みたいになればいいのよ。ふふふ、どう。傷ついた?」

 

今までにない強気な口調のマルレインに、スタンとルカはやはり同時に目を丸くした。ふんころがしって関係あるのか?

 

「はああっ?お前、何をいきなり・・・・」

「それから、わたしの許可なしに勝手にルカを連れていかないで。ルカはわたしの召使いなんだから、ルカの7割はわたしのものなんだから。そういう約束だったはずよ。だいたいルカを解雇するなんてわたし、まだ一言も言ってないわ。ルカは一生、わたしの召使いって、言ったでしょ?」

 

しかしその口調は、なんだか懐かしく感じた。
 やっぱり泣いている顔よりずっと、怒っている顔の方がかわいい。そして誇らしげに笑っている今の顔は、とびきりかわいい。・・・・・・・・泣いている顔もかわいいけど。

 怒るかと思ったスタンは最初唖然としてその暴言の数々を雨のように浴びていたが、やがて、低く笑いだした。

 

「クックック・・・・。なんだ、つまらんな。まったくつまらん。」

「ふふ、残念だったわね。」

「・・・・けっ、違うわ。さっきのキサマの悪口が、まったくつまらんと言ったのだ。ぬぁーにがサナダムシだ靴下だ。そんなんでは人の心にかすり傷ひとつつけられん、生やさしい悪口だ!もっと邪悪な魔王レベルで言え!」

 

 そう言うわりには先ほど、ちょっと傷ついた声が聞こえた気がしたが。
 マルレインはむっとした様子で返そうとしたが、言い返せるうまい言葉がすぐには思いつかなかったらしく、そのまま悔しげに口をつぐんでしまった。その拍子にふと、驚いたままのルカを見た。とたんに頬を赤く染めてはにかんで、腫れた赤い瞳で恥ずかしげに笑った。
 戸惑うルカが燭台が置かれたテーブルの方を見ると、シャンパンの入ったグラスを持ったロザリーがこちらを見て笑い、空気を読んでかおかしそうにからかう。

 

「なにー、ケンカ?こんな日にやめなさいよ、アンタたち。」

「うるさい、キサマが言うな!」

 

 

 

 母が煮込み終えたシチューの入った大鍋を運ぶようにルカとスタンに呼びかけ、スタンはしぶしぶといった様子だったが、2人で家の中に向かった。マルレインはロザリーや父や祖父母とともに、談笑に加わった。
 もっとマルレインが、たくさんの人とお話できるといい。そしてこの暖かな世界に、馴染んでいけるといい。
 奇妙な世界はきみも、待っているんだと思うから。

 

―――良い年越しを迎えられそうだな。

 そう思ったところで台所に向かう途中でアニーに、キスリングが挨拶にやってくる予定の旨を告げられて、ルカとスタンは非常に苦々しい表情で顔を見合わせた。しまった、父と博士が一緒になれば何が起こるかわからない。彼らの濃い長話に付き合わされる深い夜(様々な意味で)になるくらいなら、その前にマルレインを連れて静かに家から逃げ出そうと思った。
 これは呪われたサーカスの夜の教訓である。













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