何かが足りない。最近、ずっとそのような気がしている。
一体何が足りないのかはわからない。心に大きな穴が空いたまま埋まらないでいるような、空虚な日々。なぜだろうか。以前はそのような気持ちなど、微塵も感じなかったのに。
王女は見慣れた侍従長とともに、いつものように冒険を楽しんでいた。いや、彼女は本当は楽しんではいなかった。楽しいふりをしていた。楽しいふりをすることで、自分の中にあるわずかな異和感に気づかないようにつとめていた。
侍従長は王女を連れて歩く。彼女の望むままに―――彼の望むままに、どこまでも。民衆が跪く前に、勇者の盾の前に、魔王の爪の前に、王女を立たせては物語を演じてみせる。
それが彼女にとっては、なぜだかひどく空虚に感じられた。自らももったいぶって演じている以上、その劇が偽物であることには変わりなく、今さらわかり切ったことである。見せられているものが偽物であろうとも、これまではずっと、自分は物語をそれなりに楽しんでいたはずだった。幸せだった―――今も、幸せなはずだ。何も不足はなく、不満も不自由もない。それなのに、物語から何かが欠如していた。何も失ってはいないというのに、何かを見失ったように感じていた。
「王女マルレイン様。我こそは・・・・・・・・・・・・」
大勇者ロザリーが、王女マルレインの目の前で長々とした文句を高らかに宣言している。勇気ある言葉を、自分のためにかけてくれる。脇の町人たちは勇者と王女を囲い、彼女らを称え頭を垂れる。大魔王との戦いは間近に迫っている。魔王の軍勢が近隣の村々を襲い、人を食べ家を焼いたという。やがてこの町にも牙が向くという話だ。勇者の彼女は白き衣を纏い、白銀のレイピアを振るって、か弱き民衆と哀れな姫のために身を捧げるのだろう。
・・・・楽しくない。
つまらない。
なんだか、退屈だ。
今さら・・・・本当に今さらだ。こんなに長く、永く続けてきた冒険に、今さらになって面白味を感じられなくなってしまったのだ。冒険することに飽きてしまったとでもいうのだろうか。
目の前の勇者の顔は以前にも見覚えがある。もはや見慣れてしまっているという気さえする。この世界で最も美しく、最も強い勇者が彼女ということになっている。他に担当できるほど強い勇者が、最近はいないのだろう。馴染みの彼女の顔は見ているとどこか安心するようなのだが、いささか新しさには欠ける。それではこの退屈は、見慣れた勇者とその物語が原因なのだろうか。
それならば、別の新しい物語を用意するように、彼に頼めばいいのだ。今遊んでいる物語とは違う、よりスリルのある冒険を、あるいはよりロマンスに溢れた展開を、あるいはより魅力的な登場人物を。なんでもいい、自分は今までとは違う味のするスパイスがほしいのではないのか。
しかし彼女は、そのような新たなスパイスを物語に加えたところで、彼女自身の空虚感を埋める術にはならないであろうことに気づいていた。勇者の配役を変える必要もないこともわかっていた。自分が必要としている何かとは、そのようなことが問題なのではない。
「・・・・・・・・・・・・なのでございます。そしてマルレイン様、あなたはこの荒廃した世界において、唯一の・・・・」
「説教も世辞ももうよい。わらわは、帰る。」
ほとんど聞いていなかった大勇者の言葉を、マルレインは適当にあしらって、勇者と民衆の前から素早く踵を返し立ち去ろうとした。少しショックを受けたような勇者ロザリーの青い顔と、そんな勇者と呆気にとられた民衆に対し慌てて取り繕う侍従長の姿を横目に、一人で勝手に宿へ向かった。
あとから宿に追いついた侍従長―――侍従長役のベーロンが、不機嫌な様子のマルレインを前に、困ったように笑った。
「どうした、マルレイン。なぜそのように怒っている?それとも奴らの前で、王女らしく振る舞ってみせただけかね?」
椅子に腰掛けたまま、彼女は俯いて答えない。ここ暫くの間マルレインが塞ぎ込んでいることを、彼は気づいていた。家出騒動を忘れた彼女がベーロンのもとに戻ってきて以来、ずっとそのような調子が続いていた。
本来内気な性格の彼女だが、王女として振る舞っている間は、彼女は美しい面をかぶったように気高く振る舞う。そして普段は口にしないようなワガママを、まさに権力という自由を得た姫さながらに口にする。どちらが彼女の本音、本心であるのかベーロンにはわからなかったが、自分が彼女のために作った役に、彼女がなり切って遊び振る舞ってくれることに対しては満足していた。そのため多少の「王女らしい」ワガママには喜んで応え、ワガママな態度にも嫌気を差すことはなかった。最近の彼女の自分に反抗するような態度でさえ、「王女」の分類に則した反応のあらわれとして、計算されたものなのだと信じていた。
「今の冒険は面白いだろう?どうだ、大勇者ロザリーはうまくできあがった勇者だと思わないかね。強く、美しく、勇ましく、それなりに魅力に溢れている。まるで300年前の勇者ホプキンスを思い出すようじゃないか。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「いずれロザリーが、私が用意した勇者の力を手に入れれば、最後の決戦ももうすぐになる。お前はそれまで、いろいろロザリーと話をしておくとよいと思うのだがな。お前が悲しげに身の上を語れば、彼女はお前を守りたいという気持ちを一層強めるだろう。お前が気高く命じれば、彼女はお前に命まで差し出すだろう。あの大勇者は、お前の好きなように使ってくれてかまわないよ。お前が望むなら。」
「・・・・・・・・・・・・。」
ベーロンが宥めるように言おうと、マルレインは顔を上げなかった。少しも動こうとせず座り続けている姿は、まるで感情のない人形のように見えた。人形―――ベーロンは不意に蘇った印象を軽く振り払う。マルレインに近づいてその頭を撫でてやる。ほら、あたたかいではないか。
「マルレイン・・・・今日はもう、すぐにおやすみ。疲れたのだね。眠って、なにもかも忘れなさい。お前をわずらわせることは全て忘れて、楽しんでほしいんだよ。」
それでも何も答えないマルレインの小さな両手には、古いオルゴールが抱えられていた。それを見つけたベーロンは顔を顰める。自分が知らない物を彼女が大切そうに所有しているという事実が、彼の癪に障った。
「マルレイン。前々から気になっていたのだが。そのオルゴールは、どこで手に入れたんだ?」
「・・・・わからないわ。思い出せないの。とても、大切なものなんだけど・・・・いつから持っていたのか、どうして持っているのか、どうしても思い出せないの。たぶんこれは、もともと私のものじゃなかった気がするわ。じゃあ誰からもらったんだろう。どうして、私にくれたんだろう・・・・。」
ぼんやりと言いながらマルレインは、オルゴールをやさしく撫でた。ベーロンがマルレインに接する仕草と同じだった。ベーロンはその手つきに気づき、彼自身がこれまでに感じたことのない、不穏な感情にとらわれた。
彼女は目の前の彼を見ていない。それどころか、彼女の目の前に繰り広げられている物語とは、まったく別のことを考えているように見えた。・・・・そんなはずはない。彼女はもう、以前の彼女と同じはずだ。「あの冒険」の前の彼女と・・・・。
そのように自分に言い聞かせても、不穏な感情を拭うことはできなかった。気のせいだ、という言葉は彼女に言い聞かせるしかなかった。
「そんなことは気にしなくていいじゃないか。きっと、ずいぶんと前のことなのだろう。お前が覚えている必要があるほどの者ではなかったのだろうよ。お前がそれを大切にしたいならば、それでもういいじゃないか。」
「・・・・・・・・そうね。」
それでも、部屋を出ようとするベーロンの背後でオルゴールの蓋を開け、メロディーに耳を傾けるマルレインを振り返って見たときの、その安らかな笑顔が彼の心中に小さなわだかまりをつくった。その音色も不愉快なものだった。
冒険は続く。冒険のシナリオに沿って侍従長とともに世界を巡る中で、マルレインは誰かを探していた。ベーロンは彼女の彷徨う視線に気がついていた。物語が目の前で目まぐるしく展開されていても、誰とともにいても、彼女の関心はそこにはなかった。常にどこか遠くを見ていて、その視線の先は不安げに揺れ動いていた。
王女は誰かを探している。
勇者でも魔王でも、侍従長である男でもない。誰でもない誰か。消え失せた透明な姿、透明な名前を探していた。ベーロンはマルレインが彼が作った冒険に少しも入り込んでおらず、父である自分のことさえも見ていない様子に、徐々に苛立ちを覚え始めていた。
いや、不安と言ってもいい。娘の心あらずな様子に、物語の根底を揺るがす危険な気配を感じた。主役であるはずの彼女自身が見せ始めている、つまらない寸劇を前にした観客のような虚ろな反応。父が用意した勇ましい大勇者も恐ろしい大魔王も、娘の目には映っていない。しかし大切な娘を楽しませることができるのはただ一人、この世界の主である、彼女の父親である自分だけであるはずなのだ。
自分には理解できない考えを抱いている様子を見せる娘が、遠く、自分の手の届かないどこかへ行ってしまうような恐れをベーロンは抱いた。昔に起きてしまった事故でいなくなった、最初の娘と同じように。
もう二度と、あのような事故は起こさせない。この娘は守らなければならない。王女は、守られなければならない。
「楽しくないわ。」
物語が終盤に差し掛かったとき、王女はついに口にした。
「・・・・私は、もっと、ずっと楽しい冒険を知ってるはずなの。どんなだったか、どうしても思い出せないんだけど・・・・とっても、楽しい・・・・。私を助けるのも、強いだけの勇者なんかじゃなくて・・・・あの時は・・・・あの冒険の時は・・・・!」
マドリルの宿屋の一室で、マルレインは訴えた。その言葉を聞いたベーロンは耳を疑った。彼女の中には消え去ったはずの短い冒険の記憶が、未だにおぼろげに残っているのだ。彼女はまだ、元通りになってはいないのだ。本来あるべき状態に戻されていない。
・・・・おかしい。すべては正しい方向にもどったはずなのに。
「あの冒険が、またしたいわ!なんとかならないの・・・・?」
「・・・・だめだ。それだけは、だめなんだ。マルレイン・・・・」
この子にとって、消えた冒険の記憶がどれほど意味があるものだったのかはわからない。しかし彼女はこれまで一度たりとも、同じ冒険を二度も遊びたい、もう一度繰り返したいと望んだことはなかった。何かが終わるたび、何度でも新しいストーリーの冒険を用意しては与えてきた。そして彼女はそれでずっと満足してきたはずなのだ。
消えた冒険の書が彼女にもたらしたものは、これまでの冒険に備わっていなかった特別な何かであった。ベーロンには、それがいったい何なのかわからない。ただ唯一わかっているのは、自分のもとから家出をした彼女が魔王のひとりに出会い、勇者のひとりに出会い、そして彼らを取り巻く仲間たちと出会って冒険をしたということ。
だからこそ、その冒険の物語の登場人物であった魔王と勇者をもう一度使った。今度は彼らを物語の中心に配置することで、マルレインの楽しさをかき立てようとした。しかし不可解なことに、2人の主要登場人物の存在は彼女の関心を惹かなかったのだ。あの冒険の楽しさの根幹にあったのは、彼らではなかったということなのか?
「あの冒険、あの冒険って・・・・私、なにがそんなに楽しかったんだろう・・・・。はっきりしたこと、なにも思い出せないのに・・・・」
冒険から欠けた何か。その欠けたものの正体を、ベーロンは知らないわけではなかった。心当たりはあった。しかしそれがこの子を楽しませていたものであるとは、到底思えなかった。それほどにあれは地味で影が薄くて、目立った特徴も能力もなくて、そこにいる意味がありそうにないものであった。
実際に、必要のない存在だった。この世界には不要な部品で、この世界が取り戻してはならない歯車だ。
ぎし。
小さな物音が鳴った。
ベーロンは音が鳴った方向を見やったが、変わったところは何もない。何かが動いた形跡もなく、誰かがいた様子もない。しかし突然、自分と彼女が立っている狭い室内に、なぜか妙な違和感を感じた。先ほどの音は小さかったものの、自らのすぐ近くではっきりと聞こえたことが気にかかった。ただの家鳴りだろうか。
マルレインも、何も気づいた様子はない。やはり気のせいだったのだろうか。
もう一度あたりを見回して、不意に気づいた。部屋の扉がわずかに開いている。
―――まさか、誰かが覗いていた?
彼はそっと扉の際に立ち、部屋の外に伸びた廊下をうかがった。誰もいない。しかし胸騒ぎは消えない。あれから音は聞こえないが、あるいは聞こえていないだけかもしれない、というおかしな予感がなぜか脳裏をよぎった。
「・・・・マルレイン。少し、ここで待っていなさい。いいね。」
マルレインは彼に背を向けたまま、いまだに考え事をしているようだった。彼の言葉に反応を示さなかったが、彼はかまわず部屋を出ていった。
自分たちの安息を壊そうとする誰かがどこかにいて、そいつがまだ近くにいるような気がした。
彼が部屋を出ていって、数分ほど経っただろうか。
かさり、と軽い音がした。その音は不自然に耳に届き、マルレインは振り向く。
誰もいない部屋の床の上に、いつの間にか一輪の真っ白な花が落ちていた。それに気がついたマルレインは、その小さな花を拾い上げた。
なぜ、こんなところに花が落ちているのだろう。この部屋に花瓶はないし、第一ホテルの客室を飾るに相応しいほど華やかな花ではない。以前の利用者か掃除婦か誰かが摘んで、落としていったのだろうか。しかし先ほどまでは確かに落ちていなかったような気がするのだが。だからといって、何事にも几帳面で完璧主義な性格のベーロンが落とすとも思えない。
じっと花を見つめる。何の変哲もない、道端でよく見かけるありふれた花だ。大して珍しいものではない。しかし白い花、というその容姿がなぜか胸にひっかかった。覚えもないのに、なんだか懐かしい。
なぜわたしは、この花を手にして、嬉しいと思っているのだろう?
「会いたいな・・・・。でも、誰に・・・・?」
誰もいない部屋の真ん中で、白い花を手にしながらマルレインはぽつり、こぼした。
この世は退屈しのぎだ。長い人生をつまらない灰色の地面の上で過ごすくらいなら、はなやかな薔薇色の舞台の上で生きたほうがずっとマシだ。
人生は演劇だ。そしてこの世界はなにもかも、喜劇だ。もとより人は皆仮面を被って生きている。演じる場所が地面の上から舞台の上に変わろうとも、何も差はない。
幻想で何が悪い。あの子が幸せになれるなら、彼女がずっと幸せでいられるためなら、何だってする。
何を、誰を、犠牲にしようとかまわない。閉ざされた物語の中に閉じ込められることが不幸だと言うのなら、私たちの幸福を、お前たちもともに味わえばいい。この小世界の住人である限り、誰もがロールプレイを楽しめる。
薔薇色の舞台の上でともに踊れること。
たのしいゲームの一部になれるということ。
きみが憧れたこの作品の内側で、生きられること。
それは幸せなことだろう?
また娘が、あのオルゴールを聴いている。
最近ずっとだ。
まるでその音の旋律を、細い糸を手繰り寄せるように辿り、記憶のその向こうのおぼろな影を追っているように。
ベーロンは椅子に腰かけてオルゴールを聴くマルレインの姿を、部屋の隅から眺めていた。
彼女が忘れてしまったという何か。彼女がオルゴールの音楽をたよりに記憶の中に探ろうとしているものが、一体なぜ、どこへ消えてしまったのかをベーロンは知っていた。エンディングまで辿り着けてさえいなかった、あのささやかな冒険の記憶のかけらに、彼女の心は依然引き付けられたままだ。誰もが「あの冒険」の記憶を忘れもはや何も覚えていないはずなのに、彼女は、いや彼女だけが、なぜか失われた記憶の輪郭を覚えている。
彼女が持つオルゴールの音色は、彼女の記憶を引き戻すトリガーになっているのかもしれない。世界に存在しない者の記憶を、思い出すということは本来不可能であるはずだ。もともと「存在しない」、そのような設定になっているのだから、今ある現実に存在しえない存在を思い出すという行為は、この世界に敷かれた理に反する。
だから彼女が思い出せるはずがない。彼女がずっと探している、あの少年のことを。
「・・・・お前は、そのオルゴールが好きだな。そんなに大事なのかい。」
「・・・・・・・・うん。」
―――それでも、オルゴールをよすがにあの少年のことを思い出そうとする彼女のただならぬ様子に、ベーロンはそれを一刻も早く彼女から引き離し、処分しなければならないという焦りを覚えた。
以前とは違う新しい冒険を始めたというのに、彼女はその冒険には見向きもしない。何もかもが新しく、元通りになった世界の中で、ひとつだけ異物が混じっていることが不愉快だった。以前の冒険の一部であるそのオルゴールは、紛れもない異物だった。すべてがまだ完全に元通りになってはいないのは、少年が完全に消えていないせいなのか。それとも、このオルゴールが彼女の手元にあるせいなのか。
ならばオルゴールさえ処分してしまえば、あの冒険のことも、あの少年のことも、きれいに忘れることができるはずだ。きっともう二度と思い出せないようにさせることができる。なにもかもを、元の通りに戻せる。
「・・・・しかしもう、ずいぶんと古いだろう。それに傷もあって、汚いね。古代の機械だからな。」
「・・・・・・・・・・・・?」
「私が、新しいものを買ってあげるよ。」
「・・・・いらないわ。」
「もっと美しい音色を奏でる、可憐な装飾の箱の、お前が気に入るようなオルゴールを作らせよう。」
「いらない。」
「そうか。・・・・では、せめて修理屋に見てもらおうか。そんなに古くては、どこが壊れているかもわからないからね。」
マルレインは訝しげに、うかがうようにベーロンの顔を見上げた。
そんな様子の彼女に、穏やかに微笑んだ男は、手を差し出す。
「マルレイン。そのオルゴールを、私に渡すんだ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。いや。」
「・・・・・・・・・・・・なに?」
ベーロンは驚いた。マルレインが、自分のおとなしい娘が・・・・自分の人形であるはずの娘が、強い口調で父親に言い返したことは、初めてのことだった。
マルレインは椅子から立ち上がり、強い意志を宿した瞳で、彼の戸惑いに見張った両眼を見据え、王女の言葉をもって反抗した。
「許さぬ。これは・・・・王女たるわらわに献上されたもの。このオルゴールはわらわ、王女マルレインのものじゃ。侍従であるお前が、軽々しく手にしてよいものではない。」
「しかし、マルレイン。・・・・そんなもの、たかが、古びたオモチャではないか。」
「だめじゃ、許さぬ!だって、これは・・・・。これは・・・・大事な・・・・」
マルレインは、もどかしげに顔をしかめて古いオルゴールを見つめた。片手でオルゴールを胸に強く抱き、片手で額を押さえ、どうにかして彼女の中で失われた記憶を取り戻そうとしていた。
「うう・・・・なぜじゃ。どうして・・・・思い出せないの?わらわは・・・・わたしは、このオルゴールを、大事な人からもらったの。・・・・そう。とても大事な・・・・・・・・誰?誰なの・・・・。ずっと探してるの、このオルゴールを、わらわにくれた、誰かを・・・・!」
「そんな者はいないんだ、マルレイン!どこにもいるはずがない。いないんだ!」
「いないはずはない!確かに、わらわはあやつと出会ったのじゃ!ともに旅をした。一緒に並んで、歩いていた。決して忘れるものかっ!!あやつは必ずいる。どこかにいる、いったいどこに・・・・・・・・」
―――ばしん。
ベーロンは、マルレインの頬を強くはたいていた。
その反動に、マルレインは顔を背けた。予想もしなかった衝撃に頬を押さえた彼女は、恐る恐る目の前の男の表情を見上げた。
怒りは覚えなかった。マルレインはただ驚いていた。侍従であるはずの彼が、主であるはずの自分に手をあげたという事実を、彼女はすぐには信じることができなかった。
「ベ・・・・ベーロン・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ベーロンは何も言わず、暗い目で彼女を見下ろした。頬をはたいたのは、家族のような親密な情にもとづいたものではないと彼女はわかった。これまで見せたこともないような冷ややかな眼差しに、マルレインは疑念と警戒心を抱く。強張った面持ちで、彼女は彼の眼差しから距離をとろうとした。
彼はこれまで長い間、誰よりも従順に彼女に付き従い、寄り添い続けてきた男だった。彼女の言うことを何でも聞いては望みを叶え、彼女を守ることを繰り返し誓ってきた彼が、今はまったく別の表情を見せている。彼の不自然な態度は彼女には不可解であり、どこか不気味に感じられた。彼は、このような顔をする男だっただろうか。
「私の言うことを聞け。マルレイン。」
「・・・・・・・・どうして?」
「・・・・それがお前のためになるからだ。わかったか。」
暫しの間、ベーロンとマルレインは静かに見つめあった。ベーロンは怒りを、マルレインは不信感を互いに向けた。
マルレインは、それでもなおオルゴールを抱きしめた。
「・・・・・・・・。わらわは王女じゃ。そしてお前は、わらわの爺じゃ。それを忘れるな。触れることは、許さぬ。」
ベーロンはそれ以上、何も言わなかった。オルゴールを取り上げることもなく、彼女に背を向けた。
王女という分類を味方につけて、マルレインは反抗してきた。彼の力の源である分類が、彼を妨害した。その分類に抗うことはできない。物語上の設定を自ら破綻させるような矛盾した行為は、できるだけ避けるべきだ。
あるいはマルレインという分類自体が、もはや破綻をきたしているのだとしても、今は。
ベーロンは彼女に背を向けたまま、部屋を出ていった。
ひとり部屋を後にしたベーロンは、暗がりの中で、誰にも聞こえない嘆きを口の中で呟いた。
「すべて、つくりものだ。お前があの子だということも。お前が高貴な王女だということも、この世界も。勇者も魔王も、この小さな世界にあるものみな、なにもかも・・・・・・・」
ベーロンは顔を覆い、俯いた。
―――わかっている。どうせ、ニセモノがホンモノに成り替わることなどできやしない。
あれは何も知らない。この世界がどのような場所なのかも知らないし、この世界の外に何があるのかも知らない娘だ。この世界が自分のためにあり、それがすべてなのだと信じている娘だ。侍従である父親もまた自分のものであり、自分に忠実に従い守ってくれる存在なのだと信じている。そうあることが、そのように彼女が心からなりきって楽しく振る舞わせることが、愛する彼女のためになるのだと自分も考えていた。しかし、それは間違っていたのかもしれない。
・・・・愚かな娘だ。自分がマルレインという名の娘だと、本物の人間だと、信じているのだ。人形が人間に成りえるはずなど最初からありえないことだった。お前が私の大事なあの子であるものか。お前もまた、私がつくったものにすぎないのだ。そんなことも知らずに生きているように振る舞い、自分が世界の中心だということを我がもの顔で主張している。何も知らない無垢な人形が。
愛おしいマルレイン。マルレイン役の娘よ。お前はこの私を裏切るのか。
「・・・・・・・・これ以上、目を覚まさせないでくれないか。」
なぜベーロンは、あれほどまでにこのオルゴールを、取り上げようとしていたのだろう。
今の決まり切った退屈な冒険を遊ぶよりも、このオルゴールがもたらす懐かしくも未知の感覚に身を委ね、思いを寄せた方が、ずっと心が慰められるのに。
赤い小箱から流れる優しいメロディーを聴くたびに、どこか懐かしいような、切ないような、そして泣きたくなるような気持ちに駆られる。その感情が嬉しくて、同時にとても苦しかった。
大切な人は、この世界のどこにもいない。そんな欠落感に襲われる。
さびしい。心が空っぽのままだ。まるで自分自身が、透明になってしまったかのよう。
少女はまどろみの中で、その薄く、今にも消えてしまいそうな影を想う。
自分が会いたいと思っている大切な人は、誰なのだろう。
この音色は美しく、ひどく懐かしい。まるで昔から知っている曲のように。このささやかで素朴な音の連なりは、まるであの子との記憶のようだ。
覚えている。君がそこにいたことを、わたしは今もちゃんと覚えている。
姿が見えない、思い出せない彼は、どこに行ってしまったの?
・・・・「彼」?
そうだ。・・・・その子は男の子だった。
地味で、影が薄くて、あまり喋らないけど、いつでもわたしの傍にいてくれた。
ふと、目の前が突然、明るくなった気がした。
・・・・今ならその輪郭を思い出せる気がする。
あの子の姿は透明なんかではない。
いつも無表情の顔立ち。緑色の目、赤い髪、暗めの色調の服装、銀色の剣。自分より少しだけ身長が高い背丈。弱々しいけど、割とはっきりとものを言う声。一見全く頼りにならなさそうで、それでも頼りになる背中。オルゴールをくれた、わたしの手より大きな手。
やさしい、手。
確か、彼の名前は。
「―――ルカ?」
マルレインは目を覚ました。
これまで全く別の場所に居て、たった今元の場所に戻ってきたかのように、マルレインは驚いて辺りを見回した。そして口の中で、その名前を反芻する。
ルカ。・・・・ルカ。ルカ。
そうだ、「ルカ」だ。今までずっと、忘れていた名前。彼を彼と定める、ただひとつの言葉。
この古いオルゴールをわたしにくれたのはルカだった。「王女」と「村人」・・・・いや「召使い」、そんな身分違いの関係だったけれど、それでもこれを贈ってくれようとしたのが嬉しくて、わたしはこのオルゴールを彼に献上させたのだ。
なぜ忘れていたのだろう。なぜ忘れる必要があったのだろう。あれほど楽しかったのに。あんなに、幸せだったのに。今まで過ごした中で一番楽しかった冒険の記憶を、どうして忘れられるだろう。
これまでの自分の身に、一体何が起きていたのかわからない。ボケが始まるには早いはずだ。ではなぜ、ずっと思い出せなかったのか・・・・。
そして突然、今度は自分がなぜここにいるのか思い出せなくなった。ここはマドリルのホテルの部屋か?今まで一体、自分は何をしていたのだろう。何か、別の冒険で遊んでいたのだったか?確かさっきまで覚えていた、大勇者の名前は・・・・。若年性ボケへの疑惑が色濃くなる。あの大魔王の名前は、なんと言っただろう。
でもそれらも、大事なことを思い出した今は、どうでもいいことに思えた。
辺りを見回した部屋の中はがらんと広く、誰もいない。ベーロンもいない。
ルカは?彼をめぐってよく喧嘩した、ルカの影に取り憑いていた魔王スタンのことも思い出した。ロザリーやキスリング、リンダやビッグブルもいない。みんな、どこへ行ってしまったのだろう。
どうしてわたしは今、ひとりなのだろう?
「ルカ・・・・どこ。ルカはどこに行ったの?」
マルレインはオルゴールの蓋を閉じ、それを抱えて椅子から立ち上がった。
いいや。わたしは、ひとりなんかじゃない。みんながいるんだ。わらわには大切な仲間が、友達がいる。
すぐに探しに行かなければ。
「・・・・わらわをひとりにするとは、まったく。頼りにならない召使いじゃ。しかたない、あとでとっくりお仕置きをしなくてはな。まずわらわの靴を磨かせよう。肩ももんでもらおう。そのあとには、紅茶を淹れさせなければのう。」
―――だから、わらわの手を離さないで。わたしをひとりにしないで。
不安な気持ちの中でそう口に出して、マルレインは笑った。
自分の足で、探すのだ。彼と彼らに、もう一度会うために。
また一緒に旅をしよう。まだ、あの冒険は終わってはいない。まだニセ魔王は全て、退治できていないはずだ。だからまた出かけないと。物語を途中で終わらせるなんて、もったいない。
もう二度と手離さない。忘れたりしない。あの楽しい冒険を・・・・。
マルレインはホテルの部屋の扉から外を覗き、廊下をうかがった。誰もいない。親のいない隙を見計らって子どもが家出をするように、彼女はこっそりと部屋を出た。
ベーロンが部屋にいないのは好都合だった。もし彼に出かけると言ったら、必ず同伴すると言い出すに違いない。もしくは王女だから、と言って外出を許してもらえない場合もある。今はそれどころではないのだ。とにかく今は、時間がもったいない。いてもたってもいられなかった。
それにあの冒険にもう一度向かうことを、ベーロンに知られてはいけないような気がした。理由はわからないが、あの冒険の時間を彼の目にさらすこと、「王女」を守ろうとする彼の監視の下に置かれることが、いやだった。あのときのように、ただ自由な冒険がしたかった。
高貴ないでたちの娘が一人で出かけようとする様子を心配したホテルのフロントマンに、少し散歩に出かける旨を告げて、マルレインはホテルを出た。マドリルの町は相変わらず往来の人で賑わっている。
現在ルカがどこにいるのかはわからないが、彼が帰る場所は知っている。あのどこかなつかしく、居心地のよい家。あの家で、母上や父上たちと一緒に、ルカの帰りを待っていればいい。
・・・・きっと、帰ってきてくれる。
マルレインは目指す場所を決め、マドリルの町の門を潜り、ウィルクの森へと出ていった。
大樹のウロへと続く小路の前を横切り、吊り橋を渡る。水面に反射する日光が眩しい池を横目に、野原の中を歩いていく。川に架けられたアーチ橋を渡る。いつかひとりで侍従長のもとから家出して歩いたように、今もひとりで、歩く。
森の中をたったひとりで歩いていても、オバケは彼女を襲わない。この世界はさまざまな危険に満ちているが、とても安全な世界なのだ。この世界において無力な彼女がひとりで自由に動き回ることができるのも、この世界の敵役であるオバケが、彼女に触れようとしないからだった。
その理由を彼女は知らない。
王女は歩く。森の中の一本道を、迷わずより道もせず辿り続ける。ようやく思い出した、少年の家までの道のりを辿る。
このあたりであの日。深夜の月明かりの森で、銀色の淡い月の光を灯し、星の一粒ように優しく輝く、小さな花を見つけた。それを彼と一緒に見つけて、つんで、持ち帰った。
そのきれいな花は、母上に贈った。
王女は青い空を見上げて思い出す。お母さんの、親という存在の、そのあたたかさを。その大きさを。
彼女にはもう一度会いに行こう。それでまた、料理を教えてもらいたい。旅に出てから暇があればこっそり練習していたけれど、自分の腕前はまだまだ下手くそだ。とても人に出せるものではない。
そうしているうちに、きっとルカが帰ってくるのだろう。帰ってきたら、文句のひとつでも言ってやろう。今までどこにいたのかと。それでスタンとまた喧嘩でもして、からかってやろう。ちょっとワガママを言って、ロザリーを困らせてみたり。
ルカを手元から失ってから、彼の存在が自分にとってどれほど大切だったのかを思い知った。
みんなが自分の傍からいなくなってからはじめて、自分の周りにあったたくさんのものが自分にとって必要で、大切だったということに気付いた。ただ侍従長に手を引かれるままに歩き、世界で繰り広げられる「冒険」とは名ばかりの演劇を観て、自分はずっとひとりぼっちでいる、まるで自分がからっぽになったかのような虚しさ。そこにいることが当たり前だった全ての人間から引き離された孤独は、その反対側にあったやかましいほどの温もりを、ひどく鮮やかに思い出させた。そして彼のいつもの困った顔も、ときどき見せてくれた笑った顔も。
いつだってきみの言葉が嬉しかった。スタンやみんなとの旅が、楽しいものだったのだと、今はじめて気がついた。見えない自分を見てもらいたい―――どこにもいない自分を見つけてほしい。会いたいと強く願った。
今度会えたら、きっともっと楽しくできる。わたしもみんなと笑うことがもっとできるようになるだろう。彼の笑う顔をもっと大事にできるだろう。
サーカスのテントへと続く小路の前を横切り、三方路で王女はその一本の道を迷わず選ぶ。廃屋なんてふざけて呼ばれている、屋敷の方角を。
王女は見上げる。
古くて大きな屋敷。
6人の家族が住んでいる家を。
王女は黒い木の大きな門を開け、長い石階段を駆け上がる。
家の前の庭ではちょうど、ルカの母が陽に干したらしい布団を抱えていた。マルレインはその姿を見つけて、走って乱れた息を整え、振る舞いを王女らしく正した。
「ごきげんうるわしゅう。母上。」
「・・・・あら?あら、あらあらあらあらあら!まーまー、王女様じゃない!」
エプロンをつけた優しげな顔立ちのルカの母は、マルレインを見た瞬間に喜びが溢れんばかりの満面の笑顔になった。マルレインはその笑顔が嬉しかった。
「またいらしてくださったのねえ。うれしいわ!お一人でどうしたの?あら・・・・・・・・」
母は何かを一瞬考えて、はっと思い出したように口にした。
「ええと・・・・そうだわ。ルカは、一緒じゃないのね?他の皆さんもいないし・・・・。もしかして、はぐれたのかしら?」
「そういうことじゃ。だからわらわはここで、ルカを待つことにする。」
「あらまあ、ルカったら。女の子をひとりにするなんて、男の子として失格ねえ。あとでうんと言っとかなきゃ。・・・・そうそうそうだわ、みんなにも言わないと!王女様が来ましたよって。・・・・ああ、ちょっと待ってね、この布団、とりあえず家の中にとりこんじゃうから。」
「わらわも手伝おう、母上。」
「あら、そう?ありがとう、王女様!でもだいじょうぶよー、これで最後ですもの。一人で持っていけるわ。」
言いながらルカの母は大きな布団を抱え、玄関の奥へ颯爽と運んでいった。そして次に玄関から出てきたときには、ルカの父とルカの妹のアニーもぞろぞろと連れて現れた。玄関先の庭はいよいよ賑やかになった。
マルレインは思う。ルカの家族がもつ、このような和やかな空気は嫌いではない。この家の居心地のよさは、彼らの明るくてどこかのんきな性格からきているのかもしれない。このような温かい空気は、ベーロンとともに過ごしていても、味わうことのないものだった。彼らとは、まるで血のつながった家族のようだ。
彼らのような母と、父と、妹がほしいと思った。
「あーっ、ほんとに王女様だ!うわー、ひさしぶりー!」
「おーおー、ほんとに王女様だなあ。さすがは我が息子!スミにおけないねえ。」
「そうよねー。んー、これは母として期待してもっ!」
「ひさしくお目にかかるな、父上、ルカの妹よ。このとおり、わらわは元気じゃ。ルカが来るまでまた世話になるゆえ、ふつつかものじゃがよろしく頼む。」
「おーおー、まるでうちにもお嫁さんがきたみたいだ!いいねーおめでたいねー。・・・・うんうん、今夜は祝言だね!おかーさん、おいしいごちそう頼むよ。」
「ええ、まかせて!うふふ、今晩はステーキよ。」
「うそ、ホント?やったー!これでおにーちゃんが帰ってくればもーカンペキなのにねー。・・・・・・・・まあ、帰ってこないならこないで、あたしのぶんのステーキが増えるけど。」
「そうか、ステーキを焼くのか。わらわも焼いてみたいぞ。教えてくれるか、母上。」
「あらあらまあまあ、うれしいことを言ってくださるのね。もちろんよ!じゃー、一緒にはりきっちゃいましょう!」
「やー仲がいいねえ、おかーさんと王女様は。いいねー、おとーさん妬いちゃう。」
「へえ、王女様が手伝ってくれるんだ。いい嫁さんだねー。もー、おにーちゃんたら、このー。・・・・・・・・・・・・じゃっ、あたしは手伝わないで出かけてきていい?」
「やはりここにいたか・・・・マルレイン。」
和やかな会話の中に混じった聞き覚えのある声。
マルレインは肩を強張らせた。
振り返ると、執事姿の男が、階段を登り切ったところで立っていた。
不意に広場を、冷たい風が吹き抜ける。
「・・・・・・・・・・・・!」
「・・・・ん?おや。いったいどなたですかな、あなたは?」
ルカの母、父、アニーも彼を見た。ルカの父が首をかしげつつ尋ねたが、男は答えない。
「お前・・・・。どうしてここに・・・・」
マルレインとその男―――ベーロンは対峙する。
この場所にはあまりにも不釣り合いな、招かれざる客である彼の存在は、たとえこれまでずっと行動を共にしてきた相手であったとしても、彼女自身の身に緊張を走らせた。見慣れた彼に対しなぜここまで自分が緊張しているのかわからなかったが、その一因が彼のそのただならぬ様子にあったのは確かだった。
不審な男の険しい表情、そして急に張りつめていくその場の空気に、母とアニーは不安げに表情を曇らせる。
ベーロンはマルレインのそばの人間たちには見向きもせず、真っ直ぐマルレインに向かって言い放つ。
「帰るぞマルレイン。もうこの家には、二度と来てはならん。」
「・・・・・・・・断る。」
「なぜだ。・・・・なぜ、お前はそのように私を裏切る。なぜ私に応えない?」
マルレインは警戒した。これまでも何度か、侍従長としてふるまう彼の隠れた側面の顔を目にしてきたことはある。しかし今日の彼の様子は、今まで以上におかしい。あれほど穏やかだったベーロンの表情は、こちらに警戒をもたらすほどに暗く、何か薄黒い激情に蝕まれているかのように鬼気迫るものだった。顔色もひどく悪い。そして彼が口にする言葉は、不可解なものだった。
まるで自分の知らない自分に関する何かを、彼は知っているかのようだ。
「・・・・言っていることがようわからぬな。裏切るとはなんじゃ。王女たるわらわが、爺のお前に応えなければならぬものがあるとでもいうのか?出過ぎたことを言うな。おこがましいことじゃ。」
「・・・・・・・・・・・・。おこがましい、か。ふん、おこがましいのは――――――お前の方だ!!」
―――突然、マルレインの首が強く絞めつけられた。
見えない大きな手で細い首を鷲掴みにされたようだった。声を上げる余裕もなく、そのまま彼女の体は宙高く持ち上げられる。空中で首を吊らされたような状態になり、マルレインは自らの喉を絞める透明な手を引き離そうと、指で喉元を引っ掻いた。
彼女の華奢な両足は地につかず宙に垂れ下がり、息苦しさにばたつく。
「ぐっ・・・・!?う・・・・ううっ・・・・・・・・!」
「お、王女様!?あなた、一体なにをして・・・・!」
「マルレイン・・・・もう、ただではすまさん。私はお前を愛していた。誰よりも愛していた。ずっと・・・・・・・・それなのに・・・・。・・・・・・・・残念だよ。」
吊り上げられて暴れるマルレインの姿を、ベーロンは氷のように冷徹な眼差しで見上げた。その言葉の真意が、マルレインにはわからない。
あれほど自分に対して従順で、穏やかに接してきたはずの彼が今、このような乱暴をしている。その豹変にマルレインは驚愕したが、一方でこの事実を不思議だとは思わなかった。穏やかな顔に隠れた、彼の二面性には前々から気付いていた。そして自分に対する仰々しいほど親密な振る舞いに、一抹の緊張が帯びていたことも。
自分の前で紡ぐ彼の穏やかな言葉は、いつだってどこかわざとらしくて、温かい響きだったのに、どこかニセモノじみていた。嘘くさかった。まるで温かな関係を、演じていたかのように―――
予想もしなかった事態に、ルカの家族たちはさっと顔色を変えた。アニーは怯え、ルカの父は険しげな表情で身構えた。
思わずルカの母はベーロンの腕を両手で掴み、彼のしていることを止めようとする。
「あなたが誰かは存じあげませんが、お願いです。すぐにやめてあげてください!苦しがっているでしょう!?」
「うるさい。部外者は、ひっこんでいろ!」
ベーロンに掴みかかったルカの母は、強い衝撃によって、後方に向かって激しく突き飛ばされた。
突き飛ばされた彼女の身体はルカの父に全身から当たり、慌てて両腕で抱き止めた彼を巻き込んだ。そのまま2人は庭の地面を滑るように転がっていった。
「きゃああああぁぁぁぁっ!」
「うわああああぁぁぁぁっ!」
「う・・・・は、母上・・・・・・・・。ベーロン、やめ・・・・」
マルレインは首を締めつけられながらも、遠くなった地上で起きている状況をうかがう。
悲鳴を上げて地面に倒れる母親の姿を見て、胸が痛んだ。やめろと大声を出したかったが、息がつまって声が出ない。
「あいたたた・・・・。」
「おかーさん・・・・おとーさん!だ、だいじょうぶっ?今すっごい腰打ったよね!?」
地面に倒れた両親の姿に驚いたアニーは、急いで彼らに駆け寄った。
2人は身体を起こし、砂まみれになった服をはたきつつ立ち上がった。見えない力を使って自分たちを突き飛ばしたベーロンと、なおも吊られ続けるマルレインを見上げる。
「くっ・・・・アニー!お前は危ない。家の中に入っていなさい!」
「で、でも・・・・」
「いいから早く!・・・・・・・・くそっ、ど、どうすればいいんだ!戦えばいいのか!?・・・・・・・・えっ。わ、私が!?ていうかこういう緊迫感のある状況って正直ちょっとカッコいい。」
「おとーさん、さらっとシャレにならない本音もらすのやめて!」
「お、王女様・・・・。ああ、どうしましょう、どうしましょう・・・・!」
どうしようもできずに立ち尽くす彼らを映すマルレインの視界が、急速に狭まる。今まで感じたことのない苦痛―――なぜ自分がこれまで一度もそのような「苦痛」を味わったことがなかったのか、今になって不意にかすかな疑念がよぎった。
そのとき、複数の慌ただしげな足音が駆けてくるのが聞こえた。
視界の端に現れた見覚えのある姿。聞き慣れた声が耳に届く。
「な・・・・これは・・・・。・・・・ベーロンさん!?・・・・王女様!いったいなにを・・・・!?」
吊られたマルレインは、ただならぬ光景に動揺して叫ぶ勇者の彼女、その横にいる彼の姿を見つけた。彼とともにいる影の魔王も、なんだかなつかしい顔をしている。
ルカとスタンだ。隣にはロザリーやキスリング、後ろにはリンダとビッグブルもいる。
ルカ。
彼はこの場所に帰ってきた。ついに帰ってきてくれた。・・・・やっと会えた。この広い世界の中でずっと探していた彼を、ようやく見つけた。
こんな形の再会になってしまったけれど、それでもとても嬉しかった。
あなたはそこにいる。きみはここにいる。お前はちゃんとこの「世界」に、存在してくれていた。
・・・・ルカはどこにもいなくなってなんかいない。
「くっ・・・・。ルカ・・・・く、苦し・・・・助け・・・・」
「・・・・・・・・マルレイン!?」
「・・・・ふん、なにやら、おもしろいことが起こっているようだな・・・・」
「お、おお、ルカ!ロザリーさんたちも、いいところに!とつぜん、あの男が・・・・!」
邪魔者の人数が増えいっそう騒がしくなった現場に、ベーロンは迷惑そうに眉を顰める。そしてその冷徹な眼差しを、たった今やってきた者たちに対しても向けた。
「来たか。とんだタイミングであらわれるものだ。これも勇者を勇者たらしめる「分類」の力かな?めんどうなことだ・・・・」
「? ・・・・キサマ、なにを言って・・・・」
男の言葉に、魔王スタンがいぶかしげに呟く。
「ぐっ・・・・く・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ああ、なんだかとっても苦しそうッス!」
「やーん!女の子にあんなことするなんて、なんて邪悪なヤツなの!」
「マルレイン!!」
ルカはその緑の目を見開き、あせったように自分の名前を呼んだ。
マルレインはただそれが嬉しかった。
見えないカベの向こうから彼が帰ってくるのを、彼女はずっと待ち続けていた。
そして今も少女は待ち続ける。この国の王女は探し続ける。
これからも彼女は、彼の無事を願い続けるのだろう。
何も見えなくなった闇の中で、彼女はひとつの祈りとともに待つ。
たとえ自分がこの世界のどこからもいなくなったとしても、彼がどこにもいなくならないでほしいという祈りを、手足と身体、そして心を失ってもなお、彼女はきっと忘れない。
「―――マルレインをはなせ!」
今までに聞いたこともないほど力強い、ルカの怒声が響いた。
奇術師のようなタキシードを身に纏った金髪の男が、森の中の樹の大枝の上で佇み、陰からその一部始終を眺めていた。
彼はたった今起きた出来事を目の当たりにして、深い真紅の瞳の色をゆっくりと揺らめかせながら、冷静に思考をめぐらせる。
・・・・・・・・ベーロンがこれまでずっと娘の身代わりとしていた、王女の人形が破壊された。
彼はついにこの世界の秘密を、これまでただ彼の手の上で踊らせるだけだったはずの役者たちに明かした。
支配者ベーロンがあれほどにあせる様子を見るのは初めてだ。新たな魔王候補そのものは、次の物語の準備のために以前から用意されてはいたものの、その使い道はどうやら変更になりそうだ。彼は新たに「最強の魔王」の分類をかけられて、この世界において不必要になった彼らを滅するために動き出すだろう。
この世界の創造主をあれほどまでに怒らせ、あせらせた少年。ベーロンの狙いは彼だ。ヤツはなぜ、あの少年のことをあれほどに恐れているのか。一見すれば、ただの無力な少年だというのに。
しかし彼は、「世界」の外に消えたにもかかわらず、もう一度この「世界」に戻ってきた。彼は誰からも自身の存在を忘れられても、なお屈することなく、本来の形へと修正されゆくシナリオの流れに逆らった。自らがどこにもいないという設定を、彼は自力で覆した。
その結果、ベーロンによって正しく塗り替えられたはずのシナリオは、謎の引力に引き寄せられるように、またもや歪んだ形へと戻ってしまった。彼が失ったはずの「存在」を取り戻し、この「世界」の内側に戻ってきたという事実が、この世界にとってどれほど重大なことだったのかがわかる。
彼は決して無力ではないのだ。ベーロンも気づいているのだろう。
彼のその目立たない風貌の裏に隠された、恐るべき力の脅威に。
おそらくその力は、腕力や魔力といったありきたりな分類で量れるものではない。彼が持つ力の正体がいったい何なのか、わからないが・・・・。
ともかく、「世界」の歪みは今、取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。
「よう。ごくろーさん。」
突然声をかけられた。自らが立つ枝の下方に彼が視線を投げると、樹の根元にはシルクハットを頭にのせた小太りの男が立っていて、薄暗い中でひらひらと片手を上げていた。
そんな緊張感のない男・ブロックの姿に対し金髪の男―――エプロスはわずかに眉をひそめた。
「・・・・・・・・なぜお前がここにいる。」
「あー?そんなん、魔王マップを見りゃ、おめーのいるところなんてイッパツじゃねえか。すぐにわかったっての。
・・・・・・・・それよりお前も見たか。アイツ、あんなにゾッコンだったお嬢さんをついに壊しやがったぜ。まー・・・・いろいろあったけど、ヤツも目が覚めたってトコロかね。こりゃあ、話の流れが大きく変わるぞ・・・・。」
ブロックの口調はいつも通り飄々としているものの、その声色はどこか張りつめているように聞こえた。それは一種の怒りから来るものか、それともある種の期待なのか。
「それはもとよりお前が意図していたことではないのか?・・・・「分類」から外れたことばかりやらかしていたお前が、こうなるよう仕向けたのでは?」
「・・・・さあ、どうなんだろーなぁ。ま、いったいどんな展開になるかは、正直なんにも考えていなかったし。しかしなにはともあれ、これでベーロン君はこの世界の存続の問題に直面せざるを得なくなったな。・・・・あとはなるようになれ、だろ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
エプロスは疑い深げにその胡散臭いシルクハットの中年を見下ろしていたが、やがて枝の上からふわりと飛び、宙に浮かびあがった。
ブロックはそろそろこの場から移動しようとしているらしい彼の様子を見上げながら、彼に尋ねる。
「で、おめーはこれからどうすんだよ?」
「彼らが、ベーロンが宣告した「最強の魔王」に立ち向かうというのなら・・・・私とも正面から顔を合わせる日も近いだろう。歯車タワーに戻るつもりだよ。すぐにヤツが分類表を送ってくるはずだ、そこに私の次の予定が書いてあるだろう。だいたい見当はついている。・・・・・・・・だが、それも今は好都合だ。」
「・・・・ふーん?」
何かを企図しているように薄く微笑む金髪の青年の白い横顔を、ブロックはのんきに頭を軽く掻きながら眺めた。
「ところで、お前は知っているのか?」
「あん?」
「ベーロンの本当の娘が、今どこにいるのか。・・・・・・・・あれは確かに、人形だった。だが、人形があのように心を持って動くには、ヤツの分類だけでは成り立つまい。」
「・・・・・・・・・・・・。知らねーな。それに知ってても、言いはせんよ。」
彼はエプロスに背を向ける。その背中は、何かを物語る。
「あの子の問題は、オレたちが考えることじゃねえ。親の問題でも、ボウズたちの問題でもねえ。あの子が自分で考えて決めることなんだと、オレは思うよ。・・・・・・・・これでお嬢さんも、真っ正面から「世界」と向き合わざるを得なくなったわけだからな。自分の足で立ち上がって、自分の口で主張しなけりゃ、結局誰も気づいちゃくれねえのさ。
・・・・・・・・もとより自分に代わりなんか無いんだ。
もう、いつまでもはじっこで丸まって、泣いている場合じゃないんだよ。」
自らの名をつけられた哀れな舞台人形を、これ以上繰り返し傷つけてしまうことになる前に。
冷たき者が温かき者として幸福に生きることは奇跡のようで残酷だ。いつか必ず暴かれる真実に、誰もが悩み苦しむことになる。
新しい身代わりが何度作られたところで、結局誰も救われやしないのだ。岩ガメも、子ガメも、石コロも・・・・・・・・ナワバリの中で生きる自分たちも。
ブロックは一足先に森の奥へと去っていった。その小さな背中をエプロスは、感情の無い横目で見つめていた。
森の中を足早に歩きながらブロックは思う。
もう誰かの手に自分の役割を、責任を委ねるのはおしまいだ。あいつらは・・・・あの子らは、糸のついたマリオネットではなく、切り張りされた背景の一部でもなく、生きた人間として生きなければならない。定められた枠から抜け出て、自らの力で主張しなければならない。閉ざされた扉の外へ一歩を踏み出す、意志ある人間として。その自覚を持つときが来たのだ。
自分の意志で動かなければ、自分の主張を持たなければ・・・・自分の本当の姿、望む在り方は見えない。ずっと他人の手の上で生き続けるか、さもなくばこの世界から消えるだけ。
あのボウズの手によって、ついに舞台を囲む巨大なカベの突破口がひらかれたわけだ。この「世界」の本当の姿―――広い世界と呼ぶにはあまりにも狭すぎる箱庭の全景、そして定められた分類にしたがって喋る人々の台詞に隠された皮肉の毒。今日からあの場にいた者たち全員の目に、それらが全て映るようになるだろう。見えなかった側面、意識してこなかった暗示、「世界」の端々に隠されたうすら寒いメッセージが、無垢だった彼らの前にはっきりと姿を現すに違いない。
さて、舞台の上での楽しい時間はもうおしまいだ。
物語の主人公だった王女は、もはやどこにもいない。そして今やあいつらもまた、このあらゆる予定が決まり切った平穏な世界のどこにもいない。
すでに彼らも自分と同じ、「はみ出し者」なのだから。
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