ボクと魔王の小休止

 









 

 ゆっくりと階段を降りていく。古い木の扉を開けると、小さくて薄暗い地下室がある。
 長年空気の入れ替えをしていない、埃と木の床のにおい。室内の壁には飾り場所に困って、結局気分に合わせてときどき家じゅうの絵画と取り替えることにした枠入りの絵が、びっしりとかけられている。その油絵の具の色、壁に映った影が、灯されたままのろうそくの火にちらちちらと揺れている。
 床には白いチョークで、本格的なんだかデタラメなんだかよくわからない魔法陣が大きく描かれている。物好きの父が、拾ったツボからあの魔王を呼び出したときに使ったものだ。
 そんな魔王にここでうっかり取り憑かれてから、随分と時間が経ってしまった。―――あのときは、まさかこんな大騒動に巻き込まれることになるとは、思ってもいなかったものだった。おおかた、自分は魔王が命じるままに全てのニセ魔王を倒して、魔王は全ての魔力を取り戻して、でも彼の性格の問題上支配したい人間たちに逆にからかわれながら、いつか世界征服することを夢見つつ野望を抱きつつ、自分の影から出ていってくれるものだと思っていた(実際のところ勇者の魔王打倒計画兼呪いによる個人的な恨みがくっついてきたり、まさかの王国の姫の召使いにされたりしていたので、一筋縄では終わらなさそうな気はしていたけれど)。
 それでも・・・・こんな、展開は想像していない。

こんなことになるなんて。

 

 先ほどまでここにいた父は上の階にいるのだろう。地下室の空間は静かで、今は誰もいない。
 いや・・・・いる、と本当は思いたかった。


 埃避けのクロスがかけられて今は必要とされず眠っている家具に、寄りかかるようにして、少女が座っている。髪の長い女の子、赤いドレスのお姫さま。
 遠目から見ればまるで、彼女もここで眠っているようだった。自分が揺り起こせば、ぱちりと目を覚まして、どうして自分がこんな暗くて埃っぽい場所にいるのか問い、すぐ上に行こうと言って立ち上がって、さっさと部屋を出て行ってしまうかもしれない。振り向きざまに目覚めの紅茶を淹れるよう命令して。
 そう思って少年は少女に近づく。少女の肌は白く、陶器のようだった。でもその印象は、本当に当たっていた。彼女の頬は確かに陶器でできていて、かつてそこにあると信じ込んでいた少女らしい皮膚の柔らかさは、嘘だったのだと気付くことになった。
 そう、人形だった―――人間だとずっと思っていたのに。

 

 ルカは未だに信じることができなかった。王女マルレインの秘密、そしてこの世界の隠された真実を。
 昨日、家の前で起きた一連の出来事。それはある一瞬に始まり一瞬で終わったような気がした。その一瞬の間に頭を貫くように知らされた膨大な情報を、ルカはすべて受け止めることができなかった。
 ただ目の前で、この世界には王も王女もいないこと、つまりこの国は「王国」などではなかったことを王女の侍従長の口から知らされ、王女の侍従長が実はこの世界を創った主であること、そして王女が彼の実の娘であることを知らされた。
 そしてこの世界が作られた物語の中にあること、自分たちは彼の手の上で踊らされていた役者であったこと―――今まで当たり前のように話をしていた王女も、また作られた存在で、本当は魂のない人形であったことを、知ることとなった。
 さらには自分自身の存在がもたらす世界への影響、その意味。ただの村人でただの子供だった自分が、いつの間にかうっかり背負わされていた責任の重みを知った。

 ・・・・責任?自分にはいったい何の責任があるというのだろう?しかし少なくともこの状況を生み出した直接の原因を、自分が持っていることは確からしい。
 あまりにも知りすぎてしまったようにも思う。知ってはいけないことを、無防備にも一気に知ってしまったようで、底が抜けたような恐怖を感じる。
 創造主は自分に対して激しく怒っていた。きっと今も怒っている。なぜなら彼が作ったこの世界を、自分が壊してしまったらしいのだ。どうしてそんなことになったのか、自分自身がいまだによくわかっていない。キスリングがなんとか状況を読み取って、彼の話と出来事をうまく繋げてくれたから、ようやく少し落ち着いて考えられるようになった。当面の目的も、一応は定まった。しかし事態を把握し切ったわけではない。
 きっとキスリング自身は今も考え続けているはずだし、ロザリーもスタンも調子を取り戻したように振舞ってはいたものの、落ち着いてはいないだろう。リンダやビッグブルのように何があっても自分らしさを失わないマイペースを貫けたら・・・・と今さらながら彼らの人間離れしているのかなんなのか、少しズレた面子の肝の強さがちょっとだけわかり、そのいつも通りの調子に安心させてくれたのも本当だった(ジェームスは事態を把握さえしていなかった様子だったので論外)。

 

 相変わらず地味で弱いままの自分は、未だに呆けてしまったまま。いつまでも呆けているなとスタンに怒られたけど、それでもどうしようもなく、真実を受け止められないでいる。
 全部偶然―――なにもかも、始まりは、魔王スタンがこの影に取り憑いてしまってから。
 こんなことになるなんて知るはずはなかった。
 この世界がどういう場所なのかも、自分がどういう存在なのかも。
 なにも知る必要なんて、なかったはずだ。ただの16歳の自分がなんとなく生きていく上で、世界の裏側の話なんか、別に。

 

(きみも知らなかったの?)

 

 座ったままのマルレインをただ見下ろして、無言のまま問いかける。彼女は眠ったまま起きない。
 ・・・・・・・・生きていない。生きている、という気配が、この少女からは感じられない。
 わかっている。ここにあるのは魂のない、ただの物なのだ。
 それがなんだか・・・・悔しい気持ちになった。だって確かに生きていたのに。ちゃんと動いて喋っていたのに。それらの記憶など全部、ウソだったのだと冷たくあしらうかような真実。真実の冷気が、動かない人形の身体からこの身に刺さるように感じられて、ルカは耐え切れず目を閉じた。
 最初から、こんな色褪せたドレスだっただろうか。
 最初から、こんな冷たい身体で動いていたのか。
 彼女自身はこのことに、自分の身体の真実に、最初から気付いていたのか?最初からわかっていて、自分の正体をずっと隠していた?それとも、気付いていなかった?自分たちが彼女を人形だと気付かなかったように、彼女もまた自分を人形だと気付いていなかった?人形が自分を人間だと思い込んでいたのか?
 ・・・・・・・・おかしな話。でも、一番そばにいた自分たちが気付けなかったのは本当のことだ。

 

 人形の前に膝をついて屈み、ルカは彼女の顔をじっと見た。相手は高貴な王女さまで、くわえて年の近い女の子だったので、こんなに近くで長い時間をかけて顔を見つめたことはなかった。
 近くで見れば見るほど、確かに彼女は人形だった。蝋燭の明かりに照らされているのは、歪みのない整った人工の顔に、長い時間を感じる古びたドレス。くすんで光沢を失った青銅色の冠は、あつらえて被せた飾りもののようだ。どうして今まで気付かなかったのかわからない。でも、気付かない方がよかった。
 マルレインは本当に魅力的で可愛らしくて、まるで人形のように整った美しい顔立ちをしていた。しかしそれも、本当に彼女が人形だったからなのだ。だっておもちゃの人形は、そのように作られているのだから。彼女で遊ぶ誰かのために。
 気付かなかったボクたちは、ずっと夢を見ていたのだろうか。現実が見えていなかったのだろうか。―――王女に対してだけではない、もしかしたらいろいろなことに対して、認識の幻を見ていたのだろうか。

何に対して?

どれに対して?

・・・・全てに対して?

この世界のなにが本当で、なにが嘘だったのだろう?

 

 

 ルカは少しためらってから、垂れ下がった人形の手をとった。
 とった手のひらはなめらかで、ひんやりと冷たい。ものと同じに。
 彼女に自分からこんなことをしたことは一度もない。そもそも身分違いの自分が触ってはいけない手であった。ただ、彼女が命令と称して手をつないできたことはあった。その時の自分は恥ずかしくも畏れ多くもあり、とにかく彼女の顔や周囲の顔を直視できなかった。
 あのとき繋いできた手は、こんなに冷たくなかった、と思う。体温があった。人間らしい体温が。
 ・・・・でも、その感覚ももはや曖昧だ。現実を指摘されてからはじめて気付く。あのとき体温がそこにあったかどうか、自分はよくわかっていなかった、ということに。
 ただそのときは無意識に判断していた、「人間だから手は温かい」。彼女が「人間」だということも、だから手が「温かい」ということも、それが考えるまでもなく当たり前のことだと自分が分類した。そこに疑う余地はなく、疑うことのほうがおかしかった。


 本当はそこに体温が、なかったのだとしても。

 

 

 真実を知った今―――信じられないという気持ちがあったと同時に、そうだった、わかっていたことだと心のどこかで納得している自分がいた。
 自分は自分が思ったより驚いていないことに気がついていた。
 こうなるのは、いつかこの真相に気づかされることは、本当は・・・・・・・・最初から、わかっていたように思う。今まで隠されていた欠けたパズルのピースが、やっと嵌ったように感じられるから。
 かたわらのマルレインを見つめる。はじめて彼女に会った日、スタンが洗脳しようとして術をかけてもうまくいかなかったこと。魂がない、おかしいとしばらくブツブツと呟いていたこと。彼女のことを母がよく、人形のように可愛いと言ったこと。祖父が思い出したように語っていた、母が子供の頃になくした人形の話。そしてマルレイン自身の言葉・・・・庶民との関わりもなく王都で暮らしていた彼女が、訪れたことなんかないはずのオンボロな自分の家や、聞いたこともないはずのオルゴールの音色を、懐かしいと言ったこと。どれも奇妙な話だった。
 全部、何を示していたのか。その可能性を自分は無意識に、隅に追いやっていただけだ。つぎはぎの布のように些細でとりもとめもない、真剣に考えることなど必要ないものだとして。
 そのように自分が全てを「分類」したからだ。

 

(わかっていたんだ・・・・全部、わかっていたことなんだ)

 

 世界の仕組みもまた、同じ。自分たちが偶然に辿り着いた真相もまた、どこかでもう気付いていたことなのかもしれないのだ。
 ボクと魔王に出会う前からずっと、あらゆる生き物の存在や世界について調べ続けていたらしいキスリングは、早くに勘付いていたのかもしれない。だから誰よりも早く、目の前に起きた出来事を把握し理解できていたのではないか?・・・・ボクらの旅に同行した理由ももしかしたら、最初からオバケがらみだけではなかったのかもしれない、と今になって少し思う。全ての事象を疑うことを生業とした学者の彼が、自分のように物事を簡単に「分類」などしない気質であるのならば。「分類」すること自体は好きそうだけれど。
 マルレインの存在を疑っていたスタンも、オバケの存在を疑っていたキスリングも、そして自分も、あるいは誰もが・・・・違和感を口に出さなかっただけで、どこかで同じように。

 

 

ある日、世界のありようについて、ふと疑問を抱くようになって。

 

ある時、おかしな話のおかしな部分に、ちょっとした認識の隙間に、気付くようになって。

 

ある瞬間、妙に都合のいい「設定」が垣間見えるようになって。

 

やがて世界から外された。

 

 

 自分が外れた場所から見たこの世界は、まるで小さな人形劇のようだった。現実とはとても思えない設定を本当のことのように言って振舞っていた。全ての人間が、世界という舞台の上で、糸を引かれて動く人形に見えた。
 それらの印象は正しかった。事実そうだった。
 ―――人形とは遊ぶものだ。好きに動かして、喋らせて、物語をつくる。ちいさな女の子が好きな遊びだ。
 昔、幼い娘だった母親がそうして遊んだように。
 人形そのものに意思はない。遊ぶ側の人間が設定づけて、操るものだから。

 

 

 マルレインのそばに座り込んだまま、彼女の手を握ったまま、ルカは俯き続ける。
 動かずにいると、自分も、彼女と同じになってしまったように感じる。
 同じ、なのかもしれなかった。

 

 人形だった自分。
 でも、その人形で遊ぶ女の子もまた、人形だったのだ。これはどういう皮肉だろう?
 ボクはきみの人形で、きみはきみの父親の人形だった。
 結局きみもボクも、みんな、同じなんじゃないか。
 人形の人形だった人々。人形のための人形劇、小さなおもちゃ箱の中。
 遊ぶ方も遊ばれる方も、自分が人形だなんて、思いたくなかったはずなのに。

 

 

 彼女のことを思い出す。
 昨日まで・・・・ここのところパーティメンバーがバラバラに散っていたので、しばらくマルレインとも会えずにいた。少なくとも昨日思いがけない形で再会したときまでは、ちゃんと生きて動いていた。自分と別れていた頃も彼女はきっと、いつも通りの調子できっと高飛車な態度でワガママばかり言って、侍従長を困らせていた―――いや、違うか。

 自分が世界からいなくなっていたとき、一度だけ、彼女に会った。彼女は気付いていなかったけど。
 あの時会ったマルレインはいつもの王女らしい口調などではなく、もっと控えめで大人しい・・・・まるで普通の女の子のような喋り方だった。
 自分がいなくなって、いきなり世界がハリボテの上の演劇のように見えるようになってから、世界の真相が自分の理解が及ばないまま頭に突き刺さっていくようになった。マルレインとベーロンの一連の会話もまた、そのよくわからない世界の一環として聞くだけ聞いた。ワガママ王女は彼女があえて演じていたものだったのだと、そのとき知ることになった。その演じていることの意味がどういうものなのかまではわからなかったが。

 きっとマルレインは最初から知っていたのだ。自分が「分類」によって役割を演じているということ。この世界がつくられた物語であることも。・・・・自分が本当は王女さまではないことも。ベーロンが本当は侍従長などではないことも。
 高飛車な態度など、本当は最初からなかったのかもしれない。「侍従長を困らせる王女」という設定さえ。

 

 

 あのとき、はじめて聞いた気がした。
 彼女の・・・・王女マルレインの、本当の声を。

 

―――楽しくないわ。

 

―――私は、もっと、ずっと楽しい冒険を知ってるはずなの。

 

 ときどき弱気になっていたけれど、いつだって気高く振舞って力強く喋っていたマルレインが、まったくらしくない細い声色でそう呟いていた。
 それは今まで彼女が強がりな王女の姿の裏に隠していた、本心からの言葉であるように感じた。
 ひとりの少女としての声だった。

 

 

(・・・・きみは楽しかったんだ。)

 

 あのよくわからないハチャメチャな混成軍の旅を、きみは楽しんでいた。

 あの言葉を聞いてから、
 「世界」に戻りたいと、ボクはより強く望んだ。
 彼女が王女という立場を通して、そして突き抜けてでも、誰よりも真っ直ぐに自分に接してくれようとしていたことも・・・・自分のことでいろいろ悩んでいたことも、ちゃんと知っている。それでも、楽しいって思ってくれていた。なにもかも忘れてしまっても、楽しかったという気持ちだけは、きみは忘れないでいてくれた。

 

 ひとりぼっちになってなぜか恋しくなったものは、自分を振り回してばかりいたはた迷惑な人たちの手だった。
 ムリヤリ旅立たされた道も、自分が思う以上に、面白いものなのかもしれないと思い始めていたんだ。
 自分が世界からいなくなってからはじめて、自分の周りにあったたくさんのものが自分にとって必要で、大切だったということに気付いた。
 誰かのそばにいても誰にも気づかれないままに歩き、世界で繰り広げられる「冒険」とは名ばかりの演劇を観て、自分はずっとひとりぼっちでいる、まるで自分がからっぽになったかのような虚しさ。そこにいることが当たり前だった全ての人間から存在を否定されるという押し潰されそうな孤独は、その反対側にあったやかましいほどの温もりを、ひどく鮮やかに思い出させた。そして彼女のいつもの怒った顔も、ときどき見せてくれた笑った顔も。
 楽しいと思っていてくれたきみの言葉が嬉しくて、スタンやみんなとの旅が、楽しいものだったのだと、はじめて気がついた。見えない自分を見てもらいたい―――どこにもいない自分を見つけてほしい。会いたいと強く願った。

 今度会えたら、きっともっと楽しくできる。ボクもみんなと笑うことがもっとできるようになるだろう。彼女の笑う顔をもっと大事にできるだろう。
 ボクは今度こそもっと、きみと笑う時間を、きみがずっと言葉の裏に隠していた心を、大切にすることができるはずだった。
 それも、遅かったけれど。
 ボクはきみを助けることができなかった。

 

 あのとき、彼女の中にあったもの。
 白くて綺麗な輝きは、硝子細工のような音を立てて、粉々に割れて消えた。
 あれは彼女自身の心だったのかもしれない。あるいは人形を人間とさせていた、「分類」そのものだったのかもしれない。何だったのかはよくわからないけれど、あれはきっと壊れてはいけなかった大切なもので、もはや彼女の中にはないことはわかる。
 残ったのは、もう動かない人形と、手元に戻ってきてしまった古いオルゴール。
 物語のヒロインは、勇敢なヒーローに助けられる。しかし自分はそのヒーローにさえもなれなかった。これからもなれないだろう。当たり前だ、だって自分ははじめから、ただの村人のひとりの子供に過ぎない。力もなければ奇跡だっておこせない、顔立ちもよくない、性格もよくない、物語のヒーローというものとは程遠い、普通の地味な男だ。そんな自分に比べたら、女性でありながら力があって強くて、奇跡もおこせそうで、かっこよくて勇気と正義感に溢れた勇者ロザリーの方が、ずっとずっとヒーローに近い。
 それでも彼女は、ロザリーでも誰でもなく、自分自身に助けを求めた。勇者ではなくて、ただの少年のルカに。
 求めてくれた。名前を呼んでくれた。
 その声に・・・・その気持ちに、応えられたならよかったのに。

 

 いつか、自分に高飛車な調子で手をつなげと言った王女は、一体どういう気持ちだっただろう。
 本当は、本当に、手をつないでほしかったのかもしれない。
 ・・・・自分は、もっと彼女を真っ直ぐに見てあげるべきだったのだろうと思う。彼女はもしかしたら、それを望んでいたのかもしれない。彼女が誰よりも真っ直ぐに自分に接してくれた分だけ、自分は真っ直ぐに見つめ返してあげるべきだったのだろう。
 本当は自分自身もそうしたかったのに。

 

 

 ・・・・・・・・・・・・本当にきみは人形だったのだろうか?
 きみがボクに見せたたくさんの表情が、ウソだったとはとても思えない。
 真実が最初から暗示されていて、心のどこかでわかっていたことだとしても・・・・それでも信じないでその可能性を忘れたのは、やっぱりきみのワガママな言葉やヤキモチを焼いた感情が、誰かの手でつくられたものだとは、どうしても思えなかったから、なんだと思う。
 きみが誰かに生かされた存在だったのだとしても、ボクはきみが自分で生きていたように思う。
 楽しかったという言葉さえ、鮮やかに胸に残り続ける。

 

「ごめん・・・・」

 

 本当は、ボクも楽しかったんだ。
 きみがボクの名前を呼んでくれたことが、ボクは嬉しかった。
 地味で喋るのが苦手であれだけ影が薄かったのに、それでもきみがボクを見ていてくれたことが、嬉しかったんだよ。
 ワガママを言って素直になれなかったきみの気持ちも、ボクはちゃんとわかっていた。
 それらを少しも言えなかったことが、今になって、きみにとても悪いことをしてしまったのだと気づいた。
 きみが王女であろうと人形であろうと誰であろうと、本当は全部どうでもいいことだった。

―――もう一度話せたらいいのに。

この子ともう一度話せるなら。

今度はきっともっとうまく話せる。伝えられる。

ボクもまた、きみに、心を隠していたのだと思うから。

 

 

 

不意に、背後の扉が開く音がした。ルカが俯かせていた顔をあげて振り向くと、いつの間に階段を降りてきたのか、祖母がいた。

 

「まーまー、ルカ。こんな暗いところで、どうしたね。そんなに、悲しそうな顔をして。泣いとるのかね。」

「え。な、泣いてないよ・・・・」

 

 祖母は腰を屈めた足取りで、ゆっくりルカに歩み寄った。
 そして座り込んだままのルカの隣に、よっこいしょと座った。頭をぽんぽんと撫でてくれて、ルカは少し驚き、少し顔を赤くした。もうそれなりの年齢の男なのに、励ますように頭を撫でられてしまったことが少し、恥ずかしかった。それでも、冷えた身体がさっきより温かくなった。
 祖母はいつだって何も言わないが、家族の誰かが疲れた様子のときは、その様子を穏やかな調子ながら心配して、声をかける。無口なルカが落ち込んで何も言わないでいるときも、不思議とその様子に気付いては、いつの間にか隣にいて、頭をなでてくれている人だった。
 今になって気づいたことだが、彼女は家族の誰よりも喋らないのに、一番家族のことを見ていて、一番理解しているようにルカには感じられた。今だって、どうして自分が地下室にいるのがわかったのか、とても不思議に思う。
 そんなルカの胸の内の疑問は気付いているのかいないのか、のんびりと言った。

 

「おばーさんは、ルカの味方ですからねえ。」

「・・・・・・・・・・・・」

「ルカが、やっとおうちに帰ってきてくれて、おばーさんは嬉しいんですよ。」

「・・・・・・・・・・・・」

「お人形も、やっとおうちに帰ってきてくれて、おばーさんは嬉しいんですよ。」

「・・・・・・・・え?」

 

 祖母の顔を見上げると、祖母はいつもと変わらず、のんびりと穏やかに笑っていた。まるで悲しいことなんて、最初から何も起きていないのだという調子で。
 ルカの頭の上にあった手を伸ばして、マルレインの頭の上にも、ぽんぽんとのせた。
 昔から知っているような親しみを持って・・・・・・・・まるで彼女も自分の孫だという調子で。

 

「ふたりとも、おうちに帰ってこれて、ほんとうによかったの。」

 

 ・・・・・・・・その言葉の真意は、あるのかないのか、よくわからなかったけど。
 ただその声の響きはとても穏やかでやさしくて、ありふれた日常のひとコマのようだった。
 自分もこの子も、歩き疲れてただ少し眠っているだけで、今日も元気で平和だと言うように。
 別に何も考えなくてもいいんだと、言い聞かせるように。
 その言葉はあたたかくて、眠る前の子守唄のようにほっと安心させてくれた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「いいんですよ。おばーさんは、ルカの味方ですからねえ。ルカが元気になるまで、こうしてあげますよ。」

 

 祖母が自分が元気になるように、自分の頭をなでてくれる。

 

 ルカは思う。このままじっとうずくまっていても、悲しい気持ちは終わらないのだと。
 じゃあ、元気になったら、自分はどうしたい?何をしたいのか、これから何をするべきなのか。
 ベーロンがつくった最強の魔王とやらに、言われるがまま大人しく倒されるのか。再びこの町から消えるか。
 怖いという理由から、安全な場所へ逃げる手もある。トリステのような世界のはじっこに隠れていればきっと見つからないだろう。自分は自らの安全のために、自らの存在を手放すことができるのだ。なんていったって、影の薄さなら誰にも負けないから。
 もしも自分がそうして、自らの意志でこの世界から消えたなら・・・・。彼の言葉が本当ならば、彼がつくった「新しいマルレイン」が現れるのかもしれない。スタン・・・・魔王としての存在価値を失った彼の代わりに「最強の魔王」が大魔王として君臨し、大勇者ロザリーか他の新しい勇者が活躍する世界になるのかもしれない。
 人形を操作する者は、自分好みの新しい物語を選んで遊び始める。人形を操って、またひとつの冒険が始まる。
 しかし、それではだめなのだ。そんな簡単な選択も新しい物語も、自分は望まない。
 自分が知っているマルレインも、勇者も魔王も、ただひとりだけだから。彼らに代わりなどいない。
 それにこれ以上ひとりでさびしい思いはしたくないし、スタンと、みんなと一緒に彼のもとへ行きたい。自分やみんなのことを好き勝手に言ってくれたのはやっぱり腹が立つ。なによりマルレインを苦しめながら壊したベーロンが、くやしくて許せなかった。まだ彼女と話したいことがたくさんあったのに、話す時間を奪われてしまったことも、そして伝えられなかった自分もまた。

 ただひとつの純粋な怒り、自分と彼女とスタンとみんなの存在証明。
 元気を出せ、そう―――今行きたい場所はただ一ヶ所だ。
 ルカは立ち上がる。

 

「・・・・・・・・もう大丈夫だよ。」

 

 あまり祖母に心配をかけるわけにはいかない。ずっとここにいるわけにもいかない。そろそろ自分も、調子を戻さないと。
 自分以外のみんなはちゃんと先を見据えている。今何をしなければならないのか。芯が通った彼らの強い意志を、自分も持たなければならないのだ。
 彼女はやっぱり人形だ。そして壊れたものは元に戻らない。“これまでの印象がどうあろうと、これは事実”だ。そして自分もまた、人形だったとしても。
 それでも祖母の言葉は、彼女の存在も自分の存在も、やさしく肯定してくれた。
 「真実」など、本当は大したことではないのだと言うように。

 

「ありがとう。」

「そうですか、そうですか。もういいんかね。」

「・・・・うん。」

 

 そうですか、そうですかといたって普通に言って、祖母はルカに背を向けて、来たときと同じペースでゆっくりと外に向かう扉へ歩いていった。
 立ったルカはもう一度マルレインを見下ろす。先ほどマルレインの体から感じられてしかたなかった痛くて寂しげな冷気は、少し和らいでいた。代わりに、別の痛みが足を突き刺し、立ち上がった彼を引き留めた。

 

 本当は、まだここにいたい。
 もしかしたら、ずっとここにいたいのかもしれない。
 この人形のそばに・・・・マルレインの隣に。失われたはずの彼女の温もりが、今ここにあることに気づいた。いつの間にか彼女の存在は、自分にとってこんなにも離れがたいものになっていたのだろう。
 ずっと気付かなかった、いや目を逸らしていた感情に気付く。それは胸を圧迫するような苦しくて寂しい、そして熱い痛みをともなう感情だった。泣きだすときの目頭の、腫れあがった熱のような感情だった。それは寂しさに似ている。しかしひとりぼっちの空虚な孤独感ではなく、胸の奥がずきずきと痛む孤独だった。どうしてずきずきと痛むのか、今ならわかる。

 ボクがこんな気持ちを持っていたことを、きみは知っていただろうか。
 いや、知らなかっただろう。自分でさえ、自分自身からこの気持ちを隠していたのだから。個性的すぎる人々との旅の中に、こんな感情は、きっと不釣り合いなものだろうとあえて避けていた。気付かないでいた。それに、彼女は王女様だったから。・・・・オルゴールは、王女様が欲しがったから、渡せたにすぎない。自分と彼女の関係は、その立場、役割を越えるわけにはいかないものだった。そんなことわかっている。
 今さらきみに告げることもできない。壊れたものは戻らないし、過ぎたことは取り返せない。
 もし、きみが、普通の女の子だったら。王女様でも、人形でもない、ただの普通の女の子だったら・・・・少しは結果も違ったのかな。

 

 首を振って、ルカは祖母を追って歩き出した。

 

 

「やっと気が済んだか。」

 

聞き慣れた不愉快そうな声がして目を向けると、魔王スタンが影から現れていた。

 

「だーから、いつまでも呆けておるなと言っただろーが。おまえ、男のクセして、そこらの小娘みたいに女々しいことをするな。暗い地下室にこもってメソメソと。なさけなくて見てられんわ、ったく。」

「別にメソメソなんかしてないし・・・・。」

「ならばもっとしゃきっとしろ、しゃきっと。大魔王の子分は何があろうと堂々として、前だけを見ていればよいのだ。そうやって陰気くさくウジウジされるのが余は一番キライだ。」

 

 いらだった様子で遠慮なくルカを睨みつける。しかし不思議とその視線も声色も、トゲのないものであるように感じた。冷たくあしらっているのではないということがわかる。
 そういえばスタンもまたプライドを持っているせいで、負けじとして意地を張る性格だったことを思い出す。ひねくれて面倒臭そうになんだかんだと言いながらも、実際は真っ直ぐに見て接してくれるのだ。
 スタンとマルレイン、このふたりはどこか似ている。・・・・似ていたから喧嘩していたのだろうか。

 

「わかったか?わかったなら、さっさと歩け。余は早く行ってあのナメたヒゲ面に渾身のデコピンをお見舞いしてやりたいのだ。だが、おまえがいつまでも呆けて立ち止まっていたら、それもできん。
 だから歩け。はよ動け。行動しろ。いいか、おまえが歩かなければ、余は歩けないのだ。」

「わ、わかった。わかったよ・・・・ごめん。」

 

 本当に不便でかなわん、とスタンはグチを言う。確かに彼は、自分から離れることができない。自分の意志で動くことができないのは、自分が思うよりずっと大変なのかもしれない。それでも勝手に取り憑いてきた彼に対し自分が同情する義理などないわけだが。
 それでも少しの間ここで立ち止まった自分を、彼は出てきて急かすことはしなかった。
 もしかすれば、その沈黙もまた、彼自身のひねくれた優しさだったのかもしれない。

 

「スタン。・・・・・・・・えーと。・・・・きみも、ありがとう。」

「ふん。」

 

何も言わず、スタンは影に戻った。

 

 

 

 

 ルカは地下室を後にする。彼女をそこに置いて後にする。

 

 人形はこれからも動かないだろう。きみはそこで眠り続けるだろう。
 互いの言葉が、存在が、嘘か本当かも知らないままで。
 でも、全部が嘘だったとしても、ボクは本当だと思いたい。
 そしてボクはきみの割れてしまった心が、まだ世界のどこかに散らばったままあるかもしれないという望みを、諦め切れていない。彼女という「人間」がまだ終わっていない望みを。
 魂がないと知らされたきみの本当の魂は、きっとまだ、どこかにある。
 それがたとえつくりものの希望だったとしても、ボクは本物だと思いたい。

 自分のありふれた日常は壊れたまま、今も続いている。一度巻き込まれたらもう引き返せない。一度奏で始めたら戻せないオルゴールの音と同じに。引き返せないからには、ボクはまだ歩かなければならない。

 

―――きみはそこで、あたたかい眠りの中で休んで、どうか待っていて。

 

その割れた心のかけらを、ボクは見つけるから。いつか暗闇の森の中で、きみのために光を灯す花を見つけたように、闇の中で主張する小さな輝きをきっと見つけられる。
 遅くてもそれでも、取り返しがつかない、なんて思いたくはないんだ。
 偽物だと告げられたこの小さな世界でのあの短い冒険が、人形だったきみとの時間がそれでも、つくりものではなかったと信じたい。

 

 

 

―――私は、もっと、ずっと楽しい冒険を知ってるはずなの。

 

 その冒険が、ボクが歩いてきみと出会えたことから始まったなら。
 ボクが歩き出して、彼らとともにこの手で綴った、それが楽しい物語だったのであれば。

 

 

―――おまえが歩かなければ、余は歩けないのだ。

 

 ボクが歩くことで、新しい物語を紡げるなら。
 何かを、新しい可能性を始められるのであれば。

 

 ボクは探すのだろう。
 彼女とまた笑える日を。













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