何も見えなくなった真っ暗な闇の中。
人形の体が壊され、自分自身の存在が世界のどこからも消えたあのときから、彼女は目も心も閉ざして孤独の淵を泳ぐ。
オルゴールの音色も聴こえない。あのオルゴールは人形の体が手に入れたものだから、もう自分の元に帰ってくることはないのかもしれない。またあの音を聴きたいのに。
あの、オルゴールのお礼も兼ねてルカのためにこっそり編んでいた服は、今どこにあるのだろう。世界が見えなくなってから、その服のことはおろかルカたちの存在の居場所さえわからなくなってしまったのだ。
結局、あの服は渡さず仕舞いだった。せっかく出来上がっていたのに。
ルカは自分を忘れてしまっただろうか。本当の自分は、この世界の誰の目にも見えないのだ。
父親を怒らせてしまった今、彼らとはもう、二度と会えないのだろうか・・・・。
「ルカ・・・・。」
あの日、ひんやりとしたその地下では、遠くから水音が響き渡っていた。
何故かというと、それはその場所が水面よりも深いところにあったからだ。石の台に静かに横たわる少女の頬に、地下まで染み込んできたのだろう雫が、ぽとりと落ちた。その感触に少女は顔を少し顰めたが、閉じた目を開ける様子は無く。
だが、眠っているのではなかった。彼女は倦怠な動作で手をゆるりと頬に伸ばし、濡れた頬を拭った。
鉄格子で塞がれた小部屋の中、蝋燭の火が照らす石台に少女が眠るように横たわっているその姿は、正に「囚われの姫」という言葉がぴったりな儚くも美しい光景だった。しかし当の本人はというと、そんなことは全く無頓着であった。
目を開ければきっと、薄暗くじめじめとした岩の天井が変わらず見えるのだろう。早く自分を救ってくれる勇者が現れないだろうか、と心の底で思いながら少女は退屈そうにあくびをした。救う、という単語のわりに彼女はそれほど困っているような表情をしていなかったのだが。
大体、ここの魔王は王女である自分の扱い方がなっていない。せっかく人質の身になってやっているというのに、あの魔王は紅茶のひとつも出さないのだ。おまけにこんな狭く湿っぽいところに閉じ込めるとは、少しは王女に対する礼儀というものを学んでほしいものだ―――と少女は不満げにため息をついていた。
あのとき、分類通りの「ナマイキでワガママな王女」として心までなりきって振る舞っていた彼女は、この遺跡に住む水泡魔王の態度に未だ苛立ちながらもこの水の遺跡で現れる勇者を待ち続けていた。
今度はどんな冒険になるのだろうか。魔王は一体誰か。勇者はどんな人だろうか。
想像を膨らませながら、彼女は石台の上で耳が痛くなるほどの静けさを聞いていたのだった。
「・・・・ふぁあ・・・・。」
またひとつ、彼女は大きなあくびをした。
ついさきほどまで日差しが強い中に立っていたこともあったため、背に伝わる石の冷たさだけは彼女に心地よさを与えてくれていた。魔王に対する不満はとりあえず横に置いておき、彼女はその心地よさに身を委ねながら、暫し事の有様を回想していた。
それは彼女がまだ魔王に捕まる前。
目の前に広がるは、空の色を映す湖の青い色。
少女はその時、湖に浮かぶ村リシェロにある食堂の奥にあるバーのそのまた奥にいた。
バーの奥のテラスには船を繋ぐためにある水面へ伸びる階段があり、その場所には普段誰もやってこない。大体、このリシェロのバーでさえただの飾りみたいなものだった。なぜなら普段、食堂の主人がバーへ繋がる道を荷物で塞いでしまっているからだ。それはこの子どもが多いこの村で安易に酒場に入らせないための食堂の主人による工夫なのかも知らないが、道が塞がれてしまっていることにはもうひとつ理由があった。
「分類」の力によって、誰もその場所に入れなくしているのだ。いや、分類のせいで誰もがその誰も入らないバーの存在に疑問を持たなくなっている。そのためこの場所は、王女の存在を村人に悟られることなく、王女と打ち合わせをするのに打ってつけの場所だったのだ。その場所に入れるのは、この分類を定義した者だけなのだから。
「マルレイン。」
ちょうど日陰になっているその階段に腰掛け、目の前に広がる湖を眺めている少女に話しかけたのは、黒服を着た初老の男だった。呼びかけに気付いた少女は、首だけを動かして振り向いた。
「・・・・ベーロン・・・・。もう準備は整ったの?」
「ああ。マルレイン、忘れていないだろうね?今度の冒険でも、お前は王都の王女様なのだよ。美しい姫君・・・・お前を魔王の手から守ろうと、勇者や村人たちが奮闘する。どうだい、今度の冒険も楽しそうだろう?」
「うん、そうね。とってもすてきだわ。」
彼の言葉に少女マルレインは、にこりと微笑んだ。人形のように整った顔形からつくられたその微笑みはまるで、芳しい香りを持って咲き誇る花のように可憐だった。細められた瞳は、美しい薔薇を連想させる紅い色。
その微笑みに男―――ベーロンも満足そうに笑った。
「お前は王女だからね。誰よりも偉く、誰よりも気高き存在だ。どんなわがままも言っていい。何を言っても、この世界全ての人間がお前の前に平伏すだろう。そして私は主人であるお前に仕える身。お前の新たな旅路は私が守ってやろう。」
「・・・・うん。ありがとう・・・・―――すまぬ、ベーロン。世話をかけるな。」
マルレインはその瞬間から、「王女」の分類である少女になった。「分類」は彼女の本来の口調も、性格も覆い隠してしまう。これから彼女が冒険していく上で与えられた、役者としての自分だ。彼女が身に纏う紅いドレスと、頭上に乗せた青銅色の冠が彼女の分類をよく引き立てているようだった。
しかし彼女は、自身が「分類」されているということに気づくことはなかった。この場所が分類によって誰も入れないということや、世界が自分のために作られた箱庭だということも忘れていた。
目の前の男がこの世界を作ったということも、自分自身の父親だということも。そして自分自身の正体さえも。この楽しい舞台の前では、なにもかもがどうでもよいことだった。
「これからどうするのじゃ?」
「これからお前は水の遺跡に行き、『天の声』を得る儀式を行うことになっている。だがそれは表向きの理由で、実際はこれからお前の旅に同行する強き勇者を選ぶために、お前はその遺跡にいる魔王に捕らわれる予定だ。」
「ふむ、そうか・・・・。」
正直マルレインは、この旅にスリル感を感じていなかった。大体自分はこれから魔王によって囚われの身となるわけだが、殺されるということは絶対ありえないのだ。それは自分が、この物語の主人公だから。たとえ殺されかけたとしても、勇者がきっと助けてくれるから何の心配もない。
彼女はベーロンの作る冒険物語を楽しんでいた。しかしそれは、どちらかというと自分で冒険しているというよりも、立体的な絵本を読んでいるような楽しさだ。しかし彼女はそれで満足していた。それ以外の楽しさというものを知らなかった。強い勇者、恐ろしい魔王、邪魔してくるオバケ。全てから護られる自分。それが彼女の「楽しみ」の全てを象徴していた。そして彼女にいつも付き添い、彼女の冒険を導くベーロンの存在こそが、彼女の世界の全てだった。
そしてそれは、彼女の瞳から世界を見て意思を共有しているもうひとりの「彼女」も同じだった。
2人の同じ少女の違いは、「本物」か「偽物」か、「自由」か「不自由」かということ。
「ではベーロンよ、お前はわらわの命令をよく聞け。侍従長として、わらわの望みを第一に考えよ。」
マルレインはそう約束させた。それは事実上では、王女としての振る舞いだった。
しかしそう約束させた以上、王女マルレインは何をしても許される。高価なものを買おうが、いつ休もうが、勇者に誰を選ぼうが、勝手に家出してベーロンの元から離れようが。
この世界の中にいれば、王女である彼女は自由の身になるのだ。ベーロンの目からは決して逃れられないが、彼女はこの世界の中では最重要人物であり、だからこその偽りの自由を得ていた。
「私のマルレイン。私はお前がどこにいても、ずっと見守っているよ。何も心配する必要はない。さあ、行こうか。これから始まる、新たなる冒険へ・・・・。」
「うむ。では、予定通りリシェロの村人に顔を見せに行くぞ。そしてわらわを水の遺跡に連れてゆくのじゃ。」
マルレインは立ち上がり、真っ直ぐにベーロンを見た。
ベーロンは幸せだった。こうして愛娘が自分を頼り、この世界を楽しんでくれることが。
マルレインのためならば、彼はどんな役にでもなった。
「・・・・仰せのままに。マルレイン王女様。」
―――パパ!パパ!
ぼんやりとした映像の中で、ワンピースを着た幼い少女が走っていた。映像の視点は、その幼い少女の目線だった。
彼女が抱えているのは、その小さな手には大きすぎるような古く分厚い本。
トコトコ、テクテクと走っているその場所は、どこか懐かしく感じる古い建物の中。高価そうなカーペットの上を、少女は裸足で走っていった。長い髪が、少女の動きに合わせて揺れる。
その先にいたのは、気品のある赤い礼服を着た男だった。彼は微笑んで少女を抱き上げ、少女の持つ本を受け取った。
―――ごほんをよんで!
男はその言葉に頷き、揺り椅子に座って少女を膝の上に乗せた。
そしてその古い大きな本を開く。本には色とりどりの挿絵がいくつも載っていて、幼い娘の空想を豊かに広げていくには充分だった。何度も読んだその本には、とても恐ろしい魔王とそれに立ち向かう勇者が描かれていた。魔王を倒す勇者の長い冒険物語。全て読むのにも長い時間が必要なその本を、少女とその男は何度も繰り返し読んでいた。男は何度も読んだ冒険の続きを読み聞かせ、少女は何度も読んだ冒険をいつもドキドキしながら聞いていた。
少女は本が大好きだった。
そしてその一時が、少女だけでなく男にとっても幸せな時間だった。見たくない現実から目を逸らし、娘のために身を尽くせるから。
少女は、冒険物語に出てくるヒロインに憧れていた。
―――このおんなのこのようになりたいなぁ。
少女は悲しそうに言った。
彼女は自分の家の外へあまり出ることはない。彼女の父親はこの広い世界の中でも大きな力の持ち主で、彼から常に護られるように育てられていた。
彼女は「普通の家庭」の温もりを知らずに育った。夕食をつくるのに食べたいものを尋ねてくる母親も、ケンカ友達のような兄弟も、昔話を聞かせてくれる祖父母も、彼女のまわりにはいなかった。
この世界はあまりにも広い。古い物語の中にあるような、「魔王」のような邪悪な力を持つ危険な存在も、少女の心を奪う「勇者」のような強き存在もいた。世界が広すぎる故に起こる、武器や魔力を駆使した人間や魔族による争いもあったかもしれない。男にとって世界は冷たいもので、退屈なもので、とても恐ろしいものだった。世界はあまりにも広すぎた。
父親は少女を愛していたから、少女を外に出したら最後、鳥のようにどこかへ消えてしまうのではないかという恐怖があった。だからこそ、彼女を冷たい世界の外へ出すことはなかった。あたたかい家の中、ナワバリの中で、父と娘はいつまでも仲良く暮らした。
しかし世界の外に出ることがないということは、世界の誰からも忘れられてしまうということと同じだ。
誰からも必要とされず、誰からも存在を認識されることなく生きている娘。いるかいないかの境界線の狭間で、父親にのみ認識されて生きる娘。友達も作れず、人との接し方を知らず、父としか話すことができない娘。世界の隅っこで目立つことなく、ただひっそりと生きる。
少女は孤独だった。
本の中で鮮やかに描かれている広い世界に、どれほど憧れたことか。
―――あたしもこのこみたいに、たのしくあそべればいいのに。ゆうしゃさまといっしょにたびがしたいな・・・・。
男は娘の孤独を見ていられなくなった。
娘が悲しむ姿を見たくないのは、どの親でも同じことだ。
男は彼女を本の中ではなく、外にある本物の世界で、彼女の望む冒険をさせてあげようと思った。
しかしだからといって、危険の多いこの世界に娘を放すわけにはいかない。男は大切な娘を全てから護りたかった。
あるいは、彼が守りたかったのは、娘と過ごす幸せな日々だったのかもしれない。
男は考えた。
だったら―――
「外」と「内」をカベで隔てた箱庭の中ならば、安全なのではないか?
自分の手で支配した世界で娘を遊ばせれば、娘がどこにも消えることは無いのではないか?
彼女の望むもの全てを、自分で作って与えてしまえばいいのではないか?
そうすれば娘も幸せに暮らせるし、どこにも行かないのではないか?
―――マルレイン。マルレイン。私の可愛い可愛い愛娘よ。私がお前の望むもの全てを、お前に与えよう。
―――だから、そのような悲しい顔はしないでおくれ。
―――お前の望む楽しい楽しい物語を、「世界」を与えよう。
そして、彼自身が持つ力を使って、彼がしたことは―――――
マルレインはこの場所に、以前にも訪れたことがあった。何のためだったかは忘れてしまったが。
それは彼女が遺跡の奥に住んでいるという精霊だったときかもしれないし、彼女が魔王を倒す力を持つ美姫として連れてこられたときかもしれない。どれも物語の最重要人物であり主人公であり、その中で危険な目に遭いながらも、この世界では絶対に傷つけることが許されない『悲劇のヒロイン』だった。長い歴史・・・・時間の中ではいろいろありすぎて、その記憶がいつだったかさえ覚えていない。
ただ確かなのは、自分が遊んできた数ある冒険のひとつの中で訪れたということだけだった。
何度も何度も繰り返してきた物語。でも何故か、それに疑問を持ったことはなかった。そうやってこの世界の中で遊び続けることに、飽きたこともなかった。
それが人形であるマルレインに与えられた役割だったから。
それが「マルレイン」が最初に望んだことだったから、望んだ張本人である彼女もそれを今さら放棄できなかった。
だが、彼女は望む。
いつかこのゲームのような箱庭世界が、崩壊することを。
誰か人の気配がして、マルレインはぱちりと目を覚ました。
「・・・・?」
回想しているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。それは辺りが暗かったせいか、室内が湿っていて涼しかったせいか、単に体が疲れていたのか。
そうして、マルレインは石台から体を起こした。
短い間だったが夢を見ていたような気がしていた。
とても懐かしい、ずっとずっと昔に感じたことがあるかのような不思議な感覚。しかしあの記憶は彼女のもののようで、彼女のものではなかった。少なくとも、今この場所にいる王女マルレインのものでは。あの夢は王女マルレインが見たもののようで、違う別の誰かのものだった。ともに意思を共有しているもうひとりの少女のもの。
しかし、その記憶の内容は彼女が起きた瞬間に、すっかり彼女の頭の中から消え失せてしまっていた。後に残ったのは、夢から覚めたときの余韻と安堵感。そしてまだ起きたばかりの霞がかかった頭のみ。
マルレインは優雅に目を擦り、辺りを見回した。
「・・・・勇者が来たか?」
マルレインを起こしたのは、辺りにかすかに漂う人の気配だった。そういえば眠っている間も、自分に向けられた視線と声を感じた気がしていた。あとタカタカと走る複数の足音や、オバケと戦っているような音も聞こえたと思う。
あれはもしかしなくとも、自分を助けに来た勇者だろうか、と彼女は考えた。
耳を澄ますと、彼女がいる部屋のちょうど真下の階から声が聞こえた。
「・・・・・・・・もーすっげーワガママな女でさあ。まいっちゃったよ、オレ・・・・。」
「この魔王め!王女様にヘンなことしたんでしょ?え?」
「ヘンなことって、何?」
「そ、それは・・・・。あれよ・・・・。いろいろよ・・・・。」
どうやら、遺跡の奥にいる水泡魔王と対面しているようだ。声はかすかに聞こえる程度で聞き取りづらいが、どうやら今回の勇者は女の人らしい。
それからそれらの声に混じって何故かこの場所に場違いな男の子の声も聞こえたが、たぶん気のせいだろうと勝手に解釈した。もしかすればこれから旅の仲間となる人なのかもしれないけど、それはそれで別に問題はなかった。冒険が楽しくなるのならそれで良かった。マルレインが本当に必要としているのは、楽しい冒険の旅を動かす歯車だったのだから。
「・・・・こうなったら問答無用ね!行くわよ!」
「・・・・おいこら、仕切るなバカ女!このニセ魔王を倒すのは余だ!」
誰か男の声がニセ魔王、という言葉を発していた。今までに聞いたことのなかったような単語に、マルレインはわずかに首をかしげた。これは今回の物語の中のキーワードのひとつだろうか?と最初は思っていたのだが。
真下から聞こえてくる声は次第に、斬り合う音に変わっていった。どうやら戦闘が始まったようだった。
とにかく彼らが本当に勇者ならば、きっと水泡魔王に打ち勝って自分を助け出すに違いないだろう。
マルレインは鉄格子が開くのを、勇者が水泡魔王を倒して自分のところにやってくるのを待った。
冷静な態度と目で、心の中では胸を躍らせて、新たなる冒険をひたすら待っていた。
そうして、マルレインの思惑通り水泡魔王は倒され、閉じられた鉄格子が開かれた。
その時現れたのは、カッコいい勇者なんかじゃなくて、今まで見たことの無いようなヘンテコな集団。
今度の冒険で王女が出会ったのは、騎士を思わせる風貌の日傘を差した女勇者だった。
彼女はロザリーと名乗った。神に捧げるロザリオの祈りを連想させる、聖なる勇者の名。
今度の冒険で王女が出会ったのは、変人を思わせる風貌のヨレヨレの白衣を着た学者だった。
彼はキスリングと名乗った。見た目の割に優れた頭脳を持つ、案外名の通った学者の名。
今度の冒険で王女が出会ったのは、一見地味な風貌の普通の少年だった。
彼は―――
「ふん・・・・。そこの子供、おまえは?おまえはだれじゃ?」
このメンバーの中で、何故か一番目に留まったのは勇者ではなくこの少年だった。影が薄くて他の人物に比べ無口で格好も地味で薄汚いのに、マルレインには妙に際立って見えたのだ。何故かはわからなかったが。
マルレインは彼に対し、王女らしく高飛車な態度で名乗らせた。
当たり前のように彼はひどく動揺し、その地味な風貌によく似合う弱々しい声で、呟くように言った。
「え、ボク?・・・・・・・・ルカ、です・・・・」
彼はルカと名乗った。あまりにも影が薄いけれど、初めてマルレインの心を大きく揺さぶった少年の名。
彼の影には、本来そこにいるべきでない大魔王の魂が宿っていた。
その出会いが、マルレインを今までに体験したことのない感情にさせた、今までと全く違った変わった旅の始まりだった。
なんていったって、出会って早々にルカはマルレインに抱きついてきて、マルレインに初めて思い切り平手打ちをさせたのだから。そしてその時の焦ったようなドキドキしたような気持ちを、彼女は今もはっきりと覚えている。
そしてそれ以来、マルレインが体験していったのは初めてのことばかりだった。
初めて庶民の生活や母親という温もりに触れ、初めて魔王と勇者が口喧嘩をしている様を見て、初めて他の女の子に対して嫉妬をした。初めて「恋心」というものを知った。
ただの少年ルカ、魔王のスタン、女勇者ロザリー、変人学者キスリング、巨牛チャンプビッグブル、アイドル歌手リンダ。
その変な混成軍の中に、王女である自分も混じっていた。それがただ、マルレインは嬉しかった。
自分を助けるのは、強くて立派な勇者様ではなかったけど。
本当に、とっても楽しかったのだ。
しかしその短い旅は、彼女の運命さえも変えてしまったのだ。
そして、今。
「王女マルレイン」を怒った父親によって消されてしまった彼女は、世界が見えなくなってしまった。
見たいものも見えず、話したいことも話せない。彼女が目を開けたとしてもただ暗く狭い場所しか見えない。彼女が本当にいる場所は、捨てられた街の建物の部屋の一室なのだ。あの広い世界とはかけ離れた、ちっぽけな世界。
自分の手足となるものは壊されてしまったから、頑張って編んだ服もルカに渡すことができない。このようなことになるなら王女でいる間に恥ずかしがらずちゃんと渡せばよかった、などと悔いてももはや遅いこと。あの楽しい物語は、もう終わってしまったのだ。
誰も気づかない、気に留めない場所で、どこにも存在しない少女は独りぼっちでいた。
だけど、彼女は待っている。
「ルカ・・・・。ルカ・・・・。」
暗闇の中で、ただひたすら、彼女はルカに呼びかけ続ける。
この声が誰にも届かないことは彼女だってわかっている。きっとルカに届いているはずもないだろう。
しかし、信じたいのだ。「王女」だったころの声ならば、彼に届くのではないか、と。
「・・・・何をしておるのじゃ。早くわらわを助けにこぬか。全く、頼りにならぬ召使いじゃ・・・・。」
自分で言いながら、彼女は涙を流した。
編んだ服が彼の元に届くことを願って、この声が彼の元に届くことを願って。
そして、この誰も知らない場所にいる自分を見つけてくれることを願って。
この世界が分類の力から解放され、世界に自分の存在を認めてもらえる日が来ることを彼女は信じ、待ち続ける。
しかしそれは分類の力を壊すことと同じで、それは父親を裏切ることとも同じだ。今さら、父親が自分のために作ってくれたこの箱庭の崩壊を本当に望んでいいのだろうか。最初にこの世界を望んだのは・・・・この分類世界を作る原因となった人物は、他でもない自分自身だというのに。父親をあんなに狂わせたのも全て、自分のせいだというのに。
・・・・きっと自分は、またワガママを言っている。
―――パパ、ごめんなさい。
ならば、これで最後にしよう。これが、このマルレイン王女様の最後のワガママ。
「ルカ・・・・。わらわは信じておるぞ・・・・」
最後のワガママが本当になる日を信じて、彼女は待っている。
暗い場所で泣きながら、じっと待っている。
自分の存在が認められる日を、待っている。
ルカとの再会を、彼女は待っている。
ずっと、待っている。
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